#67 朝日連峰 大朝日岳 朝日鉱泉 ナチュラリストの家 主人 西澤信雄さん

67 西澤信雄さん「自然は偉大やなぁって思えることが嬉しいのかもしれません」


1948年生。滋賀県出身、山形県朝日町在住。高校卒業後、旅をするために大学に進学。2年間の休学を含めた6年間の大学生活のうち、のべ約2年半は旅行をして過ごす。卒業後、海外で水道事業を展開する東京の会社での約2年半の勤めを経て、1975年7月より結婚したばかりの妻と共に山小屋「朝日鉱泉ナチュラリストの家」の営業を開始。山小屋の主人を務める傍ら、1999年から2003年まで朝日町町会議員、2011年より、公益社団法人・日本シェアリングネイチャー協会の代表理事を務めている。著書に『ブナの森から都会が見える』(山と渓谷社・1997)や『ブナの森通信―朝日連峰山小屋からの報告』(無明舎出版・2009)などがある。

記事公開:2014-05-06

  
胸にあった、ひたすらな思い
 どこでもやっていける――。遡ること、約40年前。そんな自信を胸に秘めた26歳の私は、一切の迷いも不安もない状態で、山形県朝日町へとやってきました。同時に、集団離村によって人がいなくなるという一ツ沢地区の近くにあった朝日鉱泉の湯治宿を買い、「ナチュラリストの家」として営業を開始。自身は、山小屋の主人として新たな人生をスタートさせました。
 遡れば、大学生の頃、国内外を問わず、旅行で色んなところに足を運んだ中で、住むところは日本であればどこでもいいとは思っていたんです。だから、朝日町が特別だったわけじゃない。折りよく見つかった場所に住んだというだけ。まぁ自然の中で暮らしたいという思いはありましたけどね。
 ――なるたけ遠いところに行きたい。地球の裏側にも足を運んでみたい。学生の頃の私を動かしていたのは、そんな思いだったでしょうか。
 そもそも、私にとって大学は、旅をするために行ったようなもの。だから入学早々、「海外旅行研究会」という団体を立ち上げました。けれども、まだ海外旅行の走りの頃という時代背景もあってか、入会したのは4年生の1人だけという結果に。(後日談としては、のちに入会した人の力で私が旅行している間に大きな団体になっていました。)一個人としては入学以降の2年間のうち半分くらいは旅行していたし、その後休学した2年間のうち1年8ヶ月は丸っきり海外で過ごしていました。
 旅の進め方としては、おおむね物価の高い国で1ヶ月ほど働いて、その後2ヶ月ほど移動して、また1ヶ月ほど働いて…ということの繰り返し。行程は基本的に行き当たりばったり。(ガイドブックなどもない時代、)宿はその場その場で決める、まさに”その日暮らし”状態。宿が見つからなければ野宿をし、時にはヒッチハイクをした車から降ろされた道端でそのまま寝ることもありました。
 とは言え、無鉄砲なわけではなく、けっこう用心深い人間です。なので、飛び出す前に“肩ならし”はしていたんです。例えば、大学1年の夏休みには、実家のある滋賀から東京まで手には片道切符のみ、財布も持たない状態で行き、現地で仕事先を見つけて働いて帰って来れるかということを試したり、翌年には1ヶ月くらい台湾に旅行してみたりというように。ちなみに、東京に行ったときも公園で寝ながら、アルバイトに通っていました。長期の旅行に出られたのは、そこで「意外と簡単やな、やれるな」という手応えをつかめた、要は成功体験を積めたからなんです。
 とにかく、当時の私の胸にあったのは、切羽詰まっていたと言えるほどにひたすら旅行したいという思いだけでしたよね。とりあえず、地球の果てまでは行かないといけないなと。「20歳までに海外に行く」という自身に課したハードルみたいなものもありました。だから、卒業後にこういう仕事をしたい…というようなビジョンなんて全く描いていませんでした。
 でも、どうしてそこまで旅に引き込まれていたんでしょうねぇ…。私が通っていた高校は地元の進学校。学生運動が盛んだった当時、(大学時代も)デモとかに参加していたりしたけど、とりわけ既存の社会体制に対する反発があったわけでもない。ただ単に「世界中を旅行して回っている人がいる」という情報を耳にして、自分もやりたいな~と思っただけじゃないかなぁ。実際、(高校)1、2年の時に一人で旅行してみて面白さを感じましたし。
 まぁ、後から振り返ってみると、世界中の遺跡が見たかったのかなと意味付けられるところもありますけどね。ガラパゴスや、マチュピチュ、ピラミッドとかは旅の目的地に設定していましたから。
 
勉強に目覚めて…
 そんな私に転機が訪れたのは、休学して海外で過ごすようになってから約1年半が過ぎた頃のこと。同じく旅行中だった大学生と話をしたことがきっかけでした。
 確か、数学的な内容だったんじゃないかなぁ。高校レベルの知識を問われた時に答えられない自分がいたんですよ。ふと振り返ってみれば、大学はとりあえず入れたらいいという気持ちで入っているし、学業の方は完全におろそかにしてきたなと。「同年代の彼らが知っていることを、自分は知らない」という事実に危機感を感じたんです。
 それまで5、60カ国を巡って、ある程度満足したというところもありましたよね。やっぱり毎日毎日スゴいものを目にしていると、飽きてくるんですよ。ピラミッドにも行った、ローマやパリも見た…となると、感動はどんどん薄れてゆく一方で。そういう心境を抱いていた時に、大学生と出逢ったことは決定打となったのかもしれませんね。
 帰国後は休学以前とは一転、ちゃんと勉強しとかないかんとの思いで真面目に大学に通い勉強をし始めました。毎朝8時40分になれば、教室の一番前に座って先生が来るのを待っているという生活を1年くらい続けました。その変わりっぷりは、周りの人が不思議がるほど。まぁ、当時の私にとっての勉強とは、あくまでも「授業にちゃんと出ること」だったような気はしますけどね。それはともかくとして、残りの学生生活2年間ではほとんどの時間を勉強に費やしていました。
 ところで、工学部にいた私の専門は土木でした。5年の時に「土木と人間性」というテーマのゼミに入り、勉強を深めていくにつれて、土木と生態学や自然保護との接点に気づき始めたんです。それがきっかけで、日本自然保護協会にも出入りするようになり、以前には全く興味がなかった自然保護活動にも携わるようになりました。
 そんな風に帰国時の熱が冷めることないまま勉強に取り組んでいた私は、卒業後、大学院に行って勉強を続けるつもりでいたんです。
 ところが一転。ある日、ふともう(勉強は)いいんじゃないかとの思いが芽生えたんです。そしてその思いに従った私は、海外で水道事業を展開する東京の会社に新卒で就職。きっと旅行経験などのキャリアを買ってくれていたのでしょう、社長から直々に何度も「来てくれ」と言われていたその会社に就職試験を受けることなく入ったんです。

変わらないもの
 振り返ってみて、たった2年やそこらの期間、外国に行ったというだけだから、取り立てて自身が変わったということはないんじゃないかなぁ…。ただ、どこでも飯を食っていけるんだという自信みたいなものは生まれたように思います。だから、朝日鉱泉に来た当初も、そのことに関しては自信満々だったし、電気も水道もガスも通っていなかったけれど、まぁそんなもんだろうという感じで気になりませんでした。自家発電機もあったし、川から水も汲めましたしね。 
 自身の経験からしても、まず自分がいれば、生活とかお金とかっていう後のことはついてくるものですから。働けばいいんですからね。事実、来た当初、山小屋を閉鎖している(せざるを得ない)冬の間、大工さんのところで働かせてもらったり、建設会社に入って土方をやらせてもらったりしていました。
 仕事内容としては例えば穴を掘ったりなど、自身にとっては目新しいことをさせてもらっていたので、仕事は全く苦痛じゃないどころか、面白かったです。雪下ろしのバイトでも、作業中はしんどいなとは思うものの、さほと苦痛でもなくって。だから、もしかしたら「働くことを厭わないこと」は私の長所と言えるのかもしれませんね。きっと、体を動かしている方がいいんでしょう。
 そうそう。私の中でキャッチフレーズがあるんです。「こころの豊かさ」と「モノの豊かさ」ってよく言われますよね?私は、他にもう一つ、「身体の豊かさ」ってあると思うんです。畑を耕すとか、山に登るとか、スポーツにしても然り。要するに、体を動かすことそのものの中に豊かさがあるということ。その豊かさには、モノとココロの豊かさに匹敵するものがあると思うんですよ。辛い作業とかでも耐えきれるのも、それで説明ができる気がする。自身も今、山登りに励んでいますけど、身体を使える嬉しさ、動かして得られる嬉しさを肌で実感していますから。
 加えて、元から楽天的なんでしょうね。朝日町に来た時も、お金はなかったけど、自身はそれが不安だとか大変だとか思ったことはありません。(妻は大変だったかもしれないけれど。)学生時代、東京で野宿をしている時も、盗まれたら…ということも考えませんでした。実際、仮に日銭として稼いだ3万とか5万の持ち金を盗られたところで、大したことじゃないですよね。だって、働けばすぐ取り返せるのだから。それから、山小屋の主人になった時も、山になんて一切登ったことがない、目の前にある大朝日岳すら登ったことがないという状態でしたからね。(笑)だから、山登りに来た人に一度怒られたことがあるんですよ、「お前、登ったことあんのか?」って。よっぽど間違ってたんでしょうね、知ったかぶりをしてやっていた私の解説が。(笑)

目に映る世界
 きっとこれまでの人生で、誰かにいじめられたとか、嫌な思いをしたというような悪い経験をあんまりしていないんでしょう。悪い人にも会ってません。物事を悪い方に考えてこなかったし、これからだってそうじゃないかな。仮にそういうことがあっても、原因を考えるとなるほどと思うことばかりでしたしね。
 遡れば、1968年に行った台湾旅行の際も、色々と大変な思いもしたけれど、大体みんなが助けてくれて無事に帰ってこれましたからね。当時は戦争が終わって20数年。現地の年配の人は日本語を話す人が多かったんですけど、ほんと、どこに行っても親切にしてくれましたから。それで、世間というものはいい人ばっかりいるんやなと。
 朝日町の人たちにしても然り。(彼らから)良くしてもらったという実感は常に付きまとっています。選挙に出る時には、色んな人に票を入れてくださいとお願いに回ったけれど、みんないい人ばっかりでしたから。「お前はダメだ」って言う人なんて一人もいなかった。初対面の人ですら、「がんばりなさい、がんばりなさい」って言ってくれました。
 そもそも、朝日町との出逢いは社会人時代に遡ります。件の東京の会社で仕事をする傍ら、日本自然保護協会に出入りしていた私は、「これからの自然保護は、子供たちに自然を教えるところからスタートしよう」とのコンセプトの下、有志で「日本ナチュラリスト協会」というグループを結成。土日や夏休みは自然教室を開催し、朝日町を始めとした田舎に責任者として子供たちを連れて来ていたんです。
 その時も、20代半ばの都会の人間にちゃんと役場が対応してくれたり、(自然教室の)開村式となると町長まで挨拶に来たり…。そんなことは普通では考えられない気もしますからねぇ。とにかく私は、すごく優遇されたような気がします。
 だから、朝日町の人たちに対して否定的な気持ちは湧かなかったですよね。もちろん、人の噂が…とかもあるけど、それはもうごくわずかな部分で、よくしてもらったとの実感の方が断然大きいですから。もしかしたら、海外の色んな国を見てきて、色んな生活があることを知って、それぞれに良さがあるというようなことを知ってたからそう感じたのかもしれませんね。

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