#67 朝日連峰 大朝日岳 朝日鉱泉 ナチュラリストの家 主人 西澤信雄さん

 
うらやましき人々
 でも、昔の私を知っている人たちからはよく言われてきたんです、「山形にそんな長くいるなんて思いもしなかった」と。実際、自分でも何故なのかはよくわかりません。もっと言えば、自分は何がしたかったのか、今もわからないんですよ。日本シェアリングネイチャー協会の代表をするようになった今頃になって、きっと自然と共に生きるということをしたかったんだなぁとかろうじて思うくらいで。今はそういう人が増えたらいい社会になるんじゃないか…と思っているんじゃないかな。だから、子供に自然観察をする機会を提供したり、ナチュラリストクラブやエコミュージアムの活動をやったりしてるんだと思います。かつて「ナチュラリストの家」と名乗ったのも、そういう思いがあったということなんでしょう。あんまりゴツゴツしないで、サラッと生きたいというか。まぁ朝日町でゴルフ場やダムの建設の話が持ち上がったときに反対したりはしましたけどね。
 でも、周りからは「西澤はああいう人や」という認識は持たれていたんじゃないかな。そもそも、自然保護団体の一員として朝日町に入ってきていたわけで。だから、気負って色んなことをしなくとも、自然とそうなるという形が理想やと思います。裏を返せば、そう思われるようなものを自分の中に持ちたいという思いはありましたね。
 で、そういうものを持たせてくれたのは、他ならぬ朝日町の人たちなんですよ。今、自身が持っているものをバラしてみたら、きっと色んな人からその時々で聞いてきた話の断片がたくさん出てくるんだと思います。そやから、よそで「何か話してください」と言われても簡単に話できる。例えば、狩人をしていた人から聞いた熊撃ちの話や、狸が云々…ってことはもう体で覚えていますから。
 基本的に、人から話を聞くということ自体が大好きなんですよ。特に自然の話とかになると、彼らの言ってることと自身の実地体験とを照らし合わせられるからますます面白い。
 いや、ほんと、朝日町に来た当初、山菜やキノコを採って暮らしている人がいたこと自体、ものすごく大きな驚きでしたから。それこそ、海外で感じたどんな驚きより大きいものであって。
 以来、かなり多くの人から話を聞いてきたけど、面白い話ばっかりでしたよ。やっぱり、そうやって生きてきた人なんだから。生きてこられたんだから。それは絶対、価値がありますよね。 
 とにかく、私の目に朝日町の人たち(特に年配の人たち)がすごくよく映ったのは間違いないですね。アケビのつるではけごを作ったりするように彼らが手にしている技術の素晴らしさには感心しきりだったし、90歳を超えても畑で食べ物を作っていたりする人を見て羨ましくも思ったり。そうやって自分でモノを作れたり、とってきたきのこをお金に換えたりできるんだから、それに勝るものはないですよね。
 かたや、自身が持っているのは大学に行って学んだ程度の知識だけ。例えば、自然観察会とかで山から採ってきたきのこを選別する際、こちらがきのこの名前を言いたがっている目の前で、地元の人たちは「食える」「食えない」という基準でどんどん仕分けしていくわけですよ。要は、彼らにとって”名前”という知識なんて何の意味もなさないという光景を目にしたりすると、自分には何もないなと思わざるを得なくって。だから、もう、とてつもなく羨ましかったですよね。
 本を書いたのも、出発点を辿ればそういう思いに行き着くんです。ある時、「山小屋に住んで、そういう人たちと付き合っている」自分は非常に面白い経験をしているな~と感じて、これは記録に残した方がいいんじゃないかと思ったわけです。そして自分が面白い話だって思うものを書いて本にしたら、けっこう売れて、生活がさらに良くなりました。(笑)
 やっぱり、何にも考えないで生きられたら一番幸せやないですか。今の時代は、いっぱい考えて、いっぱい迷って…ということがいかにも良いように言われているけど、そうじゃないような気がするんです。私の周りには、けっこうそれに近い状態で生きているじいちゃん、ばあちゃんとかはいますからね。彼らは山の中で山菜採りをしているということで完結しているわけですから。
 いずれにしても、はっきりしているのは、自分の”領域”を広げていけばいくほど、色んな問題が絡んでくるということ。私は以前、町会議員もしたけれど、”朝日町”という風に領域が広がっていって朝日町を良くしたいとなれば身の回りのことだけで完結するというわけはいかないですから。自身のタイプとしても、町全体が良くなればいいな~、みんな幸せになればいいな~って思ってしまいますし。ひるがえって、彼らは最初のところだけで、無理せずに生きているわけでしょう?そう言う意味では羨ましく思いますよね。まぁ、そうなれないのはわかっていますけど。
 いや、40年前の自分自身も自分の周りだけを見て生活するそのじいちゃんばあちゃんに近い状態だったんです。というのも、”領域”は朝日鉱泉の周りだけでしたから。でもそこから15年くらい経ってエコミュージアムを始めると”領域”は朝日町全体へと広がり、環境保全審議会委員などを経験した山形県に広がり、そしてシェアリングネイチャー協会という全国組織の代表をしている今がある。決して、そのようになりたいと思ったこともないし、そうすることを目指してきたわけじゃない。けれども、そういうポジションをもらえるようになってきた今、実感しているのは、(そういうものは)勝手に付きまとうもんなんやなーということ。そういう部分では、嬉しさも感じています。まぁでも、ここまで来れたのは、新婚時代からずっと二人三脚で山小屋を営業してきた妻のおかげだとは思っています。
 そんな風に”領域”は広がったと云えど、考えていることは昔から変わっていないんですけどね。あくまでも私にとってのベースは、山菜採りやきのこ採りをしている人たちが教えてくれた自然観ですから。

 
甦ってきた喜び 
 これからは、のんきに暮らしたいですけどね。(笑)まぁ、百名山を全部登りたいという思いはあるかな。まだ40数個だから、あと何年かかけて達成したいなと。外国で行きたい場所もあります。だから、「百名山、百ヵ国」というのが今の目標でしょうか。
 百名山を目指すようになったのは数年前のあるできごとがきっかけでした。10月半ば、すでに雪が積もっていた鳥海山(2,236m)に登った時のこと。不覚にも、私は道に迷ってしまったんです。このまま帰れなくなるのかもしれない…。そんな恐怖感と同時に山小屋の主人やのに遭難したらかっこ悪いな~という“恐怖感”が胸に広がってゆく一方で、ものすごく気分が良いというか快感も湧き上がってきたんです。結果的には、元来た道を辿って何とか帰れたんですけど、そういう経験がある意味、山の楽しさを教えてくれたんです。
 記憶をたぐり寄せてみると、その快感は大学時代以来のもの。要するに、しばらくの間、不安が極致に達するということがなかなかなかったわけですよね。昔、旅行していた時はまず、周りから全く日本語が聞こえてこないという状況が好きでしたから。実際、トラブルにもよく遭遇したけれど、明日どうなるかわからないという状況に立たされるのが好きだったんです。最近も、道で転んでけっこうな量の出血を伴ったケガをしたんですけど、その時にせよ気持ちが高ぶってきたというか、この状況をうまく乗り切ってやろうという気になりましたから。
 きっと、自身が鳥海山の上で味わった喜びはそれに類するものだったんでしょう。山小屋の主人として落ち着いてからは、毎年毎年同じようなサイクルで日々が繰り返されていく中でいつしか惰性で生活するようになっていましたから。まぁ、山で人が死ぬというようなことは山岳救助隊として何度か体験しているけれど、自分が主語となって“怖れ”みたいなものを味わったのはほんとに久しぶりでしたから。事実、それ以前は、山に登りに来た人に対して、「鳥海山ですか?あんなとこ、簡単でしょう?」みたく答えていた自分がいたし、その経験がなければ、変わらずナメたままだったんじゃないかな。
  何でしょうね…。自然に対する恐怖感というか、自然って偉大やなぁ、人間の手に負えないものなんやなぁと思えるのが嬉しいみたい。そういう感覚を日々の生活の中でも味わえたらいいと思っているんじゃないかな。シェアリングネイチャーも目指すところは似ています。山の中でのんびり過ごすことを始めとした色んな体験を通して「自分をいかに自然と一体にさせるか」を目指す。つまり、その一体感から得られる喜びを味わうためのプログラムですから。
 だから今、百名山を登っている中で、またその喜びを味わえないものかとどこかで期待している自分がいるのかもしれません。まぁ、鳥海山での体験以降はないんですけども。

  

<編集後記>
“今”を生きることへの集中力に関して、僕は西澤さんに敵わない気がする。まぁ西澤さんに言わせれば、「上には上がいる」ということなのかもしれないけれど。  

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