#70 奈良県立高田高校 野球部監督 河井泰晴さん

河井泰晴さん「最後の夏の大会の雰囲気を一度味わってしまうと、もう離れられないんです」

 

1963年生。奈良県出身。小学校の時に野球を始め、地元の中学、高田高校では野球部に、大学時代は準硬式野球部に所属。大学卒業後、2年間の常勤講師を経て正教員となる。奈良県内の3つの高校にて監督、コーチ業を務めること29年。06年より高田高校地歴公民科教諭として勤務。2年間の部長および奈良県高野連理事を経て、08年より野球部監督。

※ この取材は2014年1月に行っており、ご本人は同年4月より県立二階堂高校にて勤務。野球部部長を務めておられます。

記事公開:2014-6-30

 

野球にのめり込んで…
 「野球の面白さ、奥深さを伝えたい。そんな思いがこの世界に入ったきっかけでした」

 ――遡ること40年以上前。河井が野球を始めるきっかけは、テレビで連日のように放映される巨人戦だった。当時
「記録の王。記憶の長嶋」と称された通称ONの牽引により、V9(1965~73年)を達成した巨人の全盛期でもある。その魅力にどっぷりとつかり、完全に感化された河井は、同世代の多くの少年たちと同じようにプロ野球選手に憧れ、小学校から村の「アパッチ野球軍」のような風合いのチームで野球を始めた。プレーは基本的にプロ野球選手のモノマネをベースとした自己流。今のように野球を指導してくれるコーチなどいなかった当時、ある意味プロ野球選手がコーチだった。
 その後、吉野郡内で統合されたばかりの中学校において河井は同級生と野球部を創部。高田高校でも迷うことなく野球部に入部した。
 当時、高田高校野球部には「入部する者は多いが、辞める者も多い」という一つの潮流があり、河井の学年も例に漏れず入学時20人だった部員が1年後には10人となり、最後には7人まで減っていた。そんな中、キャッチャーだった河井は一年の時からベンチ入りし、試合にも出場。最後の夏は県ベスト8まで駒を進めた。とは言え、河井の中で高校時代の部活動にはこれといった思い出がないようだ。
「思い返してみても、しんどいだけだったなと。何を考えて、何を試みたというような具体的な記憶は全く呼び起こせませんから。練習中は水を飲んだらいけないというルールを始めとした、いわば根性論が重んじられた当時。おそらく、ただ漠然とボールを投げて、打って、追いかけていただけだったんでしょう。表面的なところに終始していたおかげで、野球の奥深さは全然見えていなかったんですよね」
 高校時代、しんどいと思ったことこそ数ある河井だが、(野球を)辞めたいと思ったことは一度たりともないという。
 1年の時、河井は体育の授業中に右肩を脱臼。今後も野球を続けていくためにと手術を受けた。手術後しばらくは入院生活を送り、結果的に完治までには半年の月日を要した。そんな河井を心配してか、入院時には入れ替わり立ち替わり野球部員が「辞めるなよ」と慰問に訪れたが、当の河井は平気の平左。「そんなに気を遣わなくていいのに」と訪れた部員の思いを斟酌する余裕すらあった。

 大学でも河井は自然な流れで野球部に入る。だが、選んだのは準硬式。硬式を選ばなかったのは、自身の能力がさほど高校では磨かれていないとの自覚があったからだ。
 いざ入ってみると、部には色んな都道府県から色んな選手が集まっていた。書面上監督は存在したが、実質的な運営は学生の手に委ねられており、練習も試合も組むのは全て自分たち。そんな環境に身を置いて野球に取り組んだ4年間で、河井の野球観は徐々に広がり、深まっていったのである。
「例えばキャッチャーとしてサインを出す時も、高校の時は何の意図もなかったんです。でも、大学ではなぜかわからないけれど、次々とひらめきが生まれてきて。その例にとどまらず、自分たちで組み立てて野球をすることってこんなにも面白いことなのかと気づいたんです」
 野球の奥深さを知れば知るほど、野球に惹かれていった河井の胸にはいつしか大学卒業後も野球を続けたいという思いが芽生えていた。
「でも、社会人野球の世界に飛び込むつもりはありませんでした。ましてや、高校時代には戻れません。けれども、自分が経験した新しい発見や味わったおもしろさは伝えたい…。だったら、指導者の道しかないのかなと」
 明確な将来の目標を描けないまま高校を卒業した河井が進学したのは一般の四大である。そこで河井は2年次から教職コースを履修。在学中に受けた教員試験では不合格だったため、卒業後は高田東高校の常勤講師として教師人生の第一歩を踏み出した。そして2年目、大淀養護学校・榛原高校・五條高校定時制と野球とは離れた環境にて過ごした1年は、河井の見聞を広める貴重な経験となった。同年には、三度目の正直で教員試験にも合格。現在は他校と統合された志貴高校にて正教員となったのである。24歳だった。
「以来、ズルズルと引きずられるようにして野球にのめりこんでいきましたね。
 私が大学に在籍していた80年代初頭から半ばにかけて、折しも高校野球は端境期を迎えていたんです。徳島の池田高校が「やまびこ打線」で注目を浴びたり、PL学園の桑田・清原がKKコンビとして騒がれたり。愛甲猛や荒木大輔などスゴい投手も頭角を現していました。
 と同時に野球のスタイルも、それまでのセオリー通りの野球から脱却し、身体をゴツくしてパワーで押すダイナミックな野球が生まれる一方で、トリックプレーやスクイズの際のかけ引きなどを戦略に取り入れる細かい野球も生まれるなど多様化していったんです
 そういった時代の流れとともに、河井の耳に次々と飛び込んでくる新しい情報は、野球へののめり込み具合を加速させた。
「90年代半ばに入ると、ウエイトトレーニングが注目を浴びるようになりました。とは言え、指導者であるこちらも教わったことがないし、どうしたらいいのか全くわかりません。
 だから当時は、私を含めた指導者のニーズを察知してか、いたるところで毎週のように何らかの講習会が開催されていました。私自身も冬(12~3月頃)の間は5、6回くらい参加していましたね。そうそう、ミズノやZETTなどのスポーツ用品メーカーもこぞって開いていましたよ」
 その後は、メンタルトレーニングが導入されたり身体づくりのための食事やプロテインなどの栄養学的な見地も加わったりするなど、高校野球を取り巻く環境は進化を遂げていく。その進化への追随を目指した河井にとっては、「とにかく耳にする情報全てが新鮮だった」という。

変わってきたスタンス
「やっぱり、指導者としての夢であり、最大の目標は、彼らを甲子園に連れて行くことです。保護者やOBの人たちに報いるという意味でも、その夢を叶えられればベストかなと思います。
 とは言え、現実としてはほとんどの高校が行けないわけです。それに、私の力でどこかしらかの大学に入れてあげられるわけでもない。であれば、引退後、次のステップに進むための力というかエネルギーを養ってあげないといけないのかなと。教育的配慮が必要というか。例えば、挨拶や周囲への気配りなどが身につけば、高校野球を3年間やった価値は高いんじゃないかなと思うんです。

 それから、自身で将来のステージを見据えてそこから逆算して今やるべきことに取り組む力も必要でしょうし、養うチャンスなのかなと。実際のところ、どうしても目先のことばかりに囚われてしまって、将来の夢が設定できない、あるいは将来の夢はあっても、具体的な手段は持っていないという子は少なくないと感じます。なので今は、まずは子供らに色々とやらせるようにしています」
 だが、河井がそういうスタンスをとるようになったのは、40代を過ぎてからのことである。
「若い頃の私は教え魔みたいな感じだったんですよ。こちらから一方的にあーせぇ、こーせぇと言ってやらせるような感じでした。当時は体力もあったので、選手たちとどっちが先に倒れるのかという勢いでやっていましたから。
 でも、その勢いに思いのほか結果もついて来ていたんですよね。不思議と勝率も高かったというか。
 ところがある時点から全然勝てなくなった…というより、私の目指すような野球ができなくなったんです。
 そもそも、高校野球は1年ごとに玉突きのような形で選手が入れ替わっていきます。つまり、その年々でチームを構成するメンバーのタイプに応じてチームカラーも変わっていくわけです。そんな中でもこちらがスタンスを変えることなく接していると、合う学年では勝率はグンと上がる一方で、合わない学年だとチームが全く機能しないというように極端な差が現れるようになったのです。
 歳を重ねて若い頃には出来ていたことが出来なくなったことにそういう経験も相まって、今のようなスタンスに変わっていったんですよね。
 まぁ、何がいいのかはわかりませんけどね。でも、「選手は指導者を越えられない」とはよく言われることですし、その理屈からすると、甲子園に出ていない私の下でプレーしている選手は甲子園に出られないことになってしまう。それではよくないので、彼らにまず思ったようにやらせてから、評価したりアドバイスをしたりするようにしています。なので、「とにかく失敗せぇ」とはよく言いますね。やっぱり、失敗する前に口を出せば、こちらの型にはめてしまうことになりますから。(こちらが口を出さないと)時間の無駄になるという見方もできますが、彼らが失敗を糧にして次のステップに進めれば成長につながるわけですしね」
 ところで、近年、河井は子供たちからある顕著な傾向を感じるという。
「自分の頭で考えずに動く子が多いと感じます。指示待ち人間と呼ぶのでしょうか」
 高田高校の野球部員の多くは、少年野球経験者だ。換言すれば、小学校の頃からずっと野球をやっている部員が多いというわけだ。
「少年野球チームに入った時点から、監督に怒られないように行動してきたという過去が見え隠れするんです。
 とりあえず指示されたことをやっていれば怒られないから、言われたことをする。それならまだしも、言われたことしかしない子もいるんですよ。だから例えば、目の前に落ちているゴミを拾えなかったり、グラウンド整備をするとなるとこぞって一塁ベースラインからスタートしたり。
 言い換えれば、「いい子」たちですね。言われたことを忠実にこなした子供に対して周りが与えてきた「いい子」という評価の産物でもあるのでしょうけどね」
 昨年、そんなチームにある変化が訪れた。七月半ばに夏の大会を終え、2年生を中心に新チームが動き始めて2、3ヶ月が経った頃のことである。
「秋季大会に敗退した後、「自分たちで練習メニューを組みたい」と言ってきたんですよ」
 それまで、大まかな練習メニューを組むのは常に監督である河井の役回りだった。遡って20年以上の監督人生の中でも例のないことであった。ゆえにいささか驚きもした河井だったが、「自分たちで決めたことなら…」と彼らの思いを受け容れた。

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