#70 奈良県立高田高校 野球部監督 河井泰晴さん


「今は自分たちでメニューを組んで練習をしています。ただ、放ったらかしにしていると、どうしてもワンパターンになりがちです。なので、都度都度、アドバイスなどは送るようにはしていますね。
 それが果たしていいのか、悪いのか…。ただ、部員に書かせている日誌には、「やらされている練習ではなくて自分たちでやっている練習なので、前向きに捉えられる」とあったのでよかったのかなとは思っていますけど。
 いずれにしても、自分たちでしようという姿勢は大事だと思います。ただ、「したい(やりやすい)練習と必要な(強くなるための)練習は違うことは忘れたらいかんよ」とは話していますね。
 自身も大学時代に経験したことではありますが、彼らもこのまま続けて力をつけて、試合にも勝てるとなってきたら、面白くなってくるんじゃないでしょうか」

胸にあった迷い、そして葛藤
 高校野球はそういった「教育の場」という顔と同時に、「勝負の世界」という顔を併せ持つ。後者の顔を見せる時、高校野球は携わる者に厳しさや非情さを要求する。
 幸か不幸か、河井はそういったものとは縁遠い指導者生活を送ってきた。
「実は私、ベンチ入りメンバー20人を選ぶ苦労を高田での11年間、否、これまでの27年間、一度も味わったことがないんですよ。1校目では、部員は1学年で少なくて10人、多くても13人程度。2校目でも、1学年平均14、5人。足りない分は2年生や1年生を入れて調整するなど、それなりにチームを組めていたんです」
 高田高校にて監督就任2年目、1年生が33人入部した。平均15人ほどの高田高校野球部史上、前代未聞のできごとだった。ところが、途中で5人辞め、大会が近づくにつれてけが人が続出した結果、背番号を与えられる20人の枠内に収まったのである。その後は、反動からか、部員は減少。10数人で推移していった。
 そんな中、2011年に入学した1年生のうち24人が入部。翌年には、30人が入部した。よって、50人前後の“大所帯”で練習を進めるという事態に河井は初めて直面したのである。ちなみに、その翌年(2013年)、つまり今の1年生は18人と落ち着いたが。
 元々、野球部で使用する高校のグラウンドはサッカー部、ラグビー部、陸上部との共用と定められており、使用可能な範囲は限られているため、満足な練習ができないことはやむを得ない。それに加えて人数が増えたことにより、練習の密度は下がっていった。
「チームを勝たせるという視点で考えると、能力的に劣った子をどこかで切らないと戦えるチームになりません。ところが、自身はそれまで選手を切ったという経験がない…。だから、どうしたもんかなと悩みましたよね」
 そんな河井の悩みをよそに、本番となる夏(甲子園出場校を決める県予選大会。奈良県では7月に行われる)は近づいてゆく。
 河井が最初に手を打ったのは冬が明けた3月のことだ。オープン戦(他校との練習試合)が始まったのを機に、メンバーを絞り始めたのだ。
「そこで、あ、おれは試合出られへんねやと勘づいてくれたらなと思ったんです」
 ところが、河井のそんな思いを察してか、ベンチから外れそうなメンバーはかえって練習に熱を入れるようになったのである。「彼らの練習態度を見ていると、こちらとしても情が湧いてきてしまったんです。ほなB戦(練習試合の2試合目。いわば二軍戦。)で使たろかとなったわけですよ。後から振り返ってみれば、甘かったかなとは思いますけどね」
 そういった河井の迷いが結果として表れたのだろうか。チームは春の大会にて1回戦で敗退。すると、レギュラーメンバーから「もっと練習したい」「選手をしぼってほしい」という不満の声が聞かれるようになった。
 そこで、河井は意を決した。日を余さず試合を組んだGWの7日間でケリをつける――。
 部員にも自身の考えを伝えた。
「GW中は、3年生全員連れて行って全員使う。でも、GWが終わった瞬間、スパッとメンバーを分けることにする。以降の練習では、メンバーに入る見込みのない者は、(ノッカーや球拾い、バッティングピッチャーなどの)サポートに回ってもらう。だから、今回がラストチャンスやぞ」
 7日間、河井は宣言通り、B戦では普段試合に出ていない選手を代わる代わる出場させた。結果、A戦では勝てても、B戦では見事なまでに大敗する毎日だった。
「これでさすがにわかってくれたやろうと思ったんです」
 ところが、そんな河井の期待もむなしく、ベンチから外れそうなメンバーはさらに熱を入れて練習に取り組んだ。絶対外れたくないと言わんばかりに食らいついてきたのである。
「ほんなら、こっちもチャンス与えたらなあかんのかなとまた情が湧いてきてしまって…。その結果、自分で宣言したこと、つまりメンバーを分けるという約束を守れなかったんですよ。
 でも、切らんことにはとてもじゃないけど、夏戦えないわけです」
 迷いを引きずったまま突入した6月、河井は彼らのために引退試合を用意することを決めた。同月16日に予定された大阪の市岡高校との練習試合のB戦をその試合として充て、グラウンドは公式戦でも使用される橿原市営球場を確保した。
 1週間前からその計画を立て始めた河井が、「この試合を引退試合とする」旨を選手に伝えたのは2日前のことだった。
「第2試合は、夏の大会、ベンチ入りメンバーから外れる可能性の高い者を使う。これは、“最後の配慮”や。この試合以降は、夏に向かう。だから、該当するメンバーはここで見切りをつけて、盛り上げる役に回ってほしい」
 ところが、この試みが裏目に出た。引退試合の翌日から、外れたメンバーのうち何名かが練習にパッタリ姿を見せなくなったのである。
「チームのために…という考え方もわかってほしいとこんこんと説きました。当の引退試合もボロボロの結果に終わりました。だから、これで納得してくれたんじゃないかとは思っていたんですけどね」
 どうしたもんか…。河井の中に生じた新たな悩みを解消したのは、チームのレギュラーメンバーだった。引退試合から4日目、レギュラーメンバーの声かけにより、来なくなった部員も練習に顔を見せたのである。練習後には河井を交えず自分たちで長時間のミーティングを実施。終了後、主将からは「みんな納得しました」という報告があった。
 それで河井の気持ちもようやく落ち着いた。チームは夏へと向かい始め、最終的に河井は3年生24人中8人をベンチから外すという決断をしたのである。
「私にとっても初めての経験だから、言葉足らずというか、どう表現していいのかわからないところはありましたね。
 労をねぎらったらなあかん。これで終わりじゃない、この経験を次にどう生かしていくかが大事やとわかってもらわなあかん…。まぁ、当の本人たちからすれば、途中で切られたとかもっとやりたかったという思いや練習も満足にできていないのに線を引かれても…と戸惑う気持ちもあったのかもしれませんけど。実際、彼らの1つ上の学年は10人しかいない、つまり(切られることに対して)全く身構えられていない状況だったでしょうから、ショックは大きかったやろなとは思います。
 やっぱり、監督としては試合に出れない子にも光を当ててあげるということもしなくてはいけないと思います。でも、私はその当て方がわからなかった。だから、よかれと思って試みたことが逆効果になったりもして。実際、夏の大会が始まっても、外れた子らに変に気を遣ってしまっている自分がいましたから。本来試合に勝つことを最優先すべきなのに、(メンバー外れた子らが)協力してくれなかったらどうしようか…と考えてしまったり。
 まぁ、難しいですよね。正解か不正解かというのも時間経ってみないとわからないことですから」
 この話には、後日談がある。
「3年生が引退した後、メンバーから外れた子たちから直接「あの時はもっとやらしてくださいと言いましたが、もっと早くからそうやっとくべきでした。」「実質的に一生懸命やったのは数ヶ月だけ。最初からそれをできなかったことが、ああいう形になって表れたんだと思います。」と聞いた時はいくらか救われましたけどね」
 やはり、人間は厳しい状況に立たされない限りなかなか気づけないもので、動けないものなのだろうか。そして、「競争」が内包する厳しさに対する免疫力が弱ければ弱いほど、「負けた」時のダメージは大きくなってしまうのかもしれない。
「もともと、うちの学校自体、皆仲が良いという校風なんです。クラス内で協力し合って作り上げる行事も盛り上がります。野球部でも、競い合うという前に輪が出来てしまっているんですよ。
 その部分では厳しさが足らんというのかな…。例えば、練習に手を抜く奴がおったら、チャンスじゃないですか。ところが、気になるみたいで。私が「放っといたらええねん」と言っても、「いや、同じようにやらないと駄目なんです」と言って取り込もうとする。そして、我が道を行くタイプで存在感のない子も決して排除しません。変なところで、他人思いというか、気にするというか…」
 その点、河井は基本的に「去る者追わず」というスタンスである。
「私は「辞めたい」と言ってきた子に対して、無理強いして続けさせるようなことはしません。やっぱり、野球はいったんメンタル面で萎えてしまうと続きません。それに、たとえ無理に連れ戻したところで、チームの士気にも影響してしまいますから。
 ただ、一度は引き留めます。「一度だけ止めさせてくれ。なぜなら、今まで辞めた奴いっぱいおる。その中で1年か2年経ってから、ないしは卒業してからおれに「あの時辞めんかったらよかった」と言う奴もようけ見てきた。君にはそういう思いをしてほしくない。だから、ホンマに辞めてええのかどうかだけもう一回考えてくれ。それでも辞めると言うなら、おれはもう止めへんから」と。
 いや、確かにみんなで頑張ろうという姿勢は大事だと思います。でも、勝つためには犠牲にしないといけない部分がある。
 かといって、教育的配慮という点から考えれば、みんな一緒に最後まで挑戦させることが教育の場では必要なんじゃないかという意見もあるでしょうし、至極もっともだと思います。でも、やっぱりそれでは勝てるわけがない。
 そういう意味では、公立高校の野球って矛盾だらけですよ。(笑)だから、公立の監督で強豪の私立高の監督みたく非情になれる人はスゴいと思いますね」

野球が味あわせてくれるもの
「これまでの監督生活を振り返ってみると、監督を経験した3校全て、就任当初は常に上の人(前任監督)がいてそれぞれの持つエッセンスを頂いてきたんです。
 1校目となる志貴高校では熱血漢の姫嶋監督(現.関西中央高校監督)から選手の怒り方・乗せ方・指導者としての心構え等野球指導の基本中の基本を教えて頂き、同校に在籍した11年間で自分のスタイルというものがある程度出来あがってきたように思います。2校目の耳成では吉田監督(現.登美ヶ丘高校監督)からバッティング理論について、そして3校目となる高田では風味監督(現.奈良北高校監督)から指導の一貫性について学ばせて頂きました。
 そんな今思うのは、引退するまでに私がこれまで吸収してきたものを誰か指導者相手に分け与えたいというか、伝えていきたいということ。自身は消化不良を起こすくらいに吸収してきた色んなものを、誰にも伝えられていませんから。(笑)
 遡って高校生の頃は今みたく、野球に関する色んな本も出版されていませんでしたし、情報が溢れていませんでした。自分が得られなかっただけかもしれませんが、当時の私は指示されるがままに明確な目標もなく野球をしていました。

Pocket

1 2 3