#71 NPO法人東北青少年自立支援センター 施設長 岩川久子さん

71 岩川久子さん「親御さんや子ども自身の変化に立ち会える喜びは、決してささやかなものではないんです」

 

1939年東京都生まれ。6歳の頃より高校卒業まで新潟県で過ごす。東京の短大に在学中、教員免許を取得。卒業後、都の教員となる。78年より4年間、足立区の中学校で情緒障害児学級を受け持つ。83年3月、退職。一家で蔵王に移住し、山荘を営む傍ら、青少年の自立支援施設「蔵王いこいの里」を開設。08年、現・NPO法人として生まれ変わり、今に至る。 

記事公開:2014-7-9

一番の宝
 突出した、危険で心がすさんだ青年たちが、どう変わっていけるか。口幅ったい言い方になるけれど、それは日本の国家や社会とも関係してくる問題だと思うんです。現時点で多くの人がニートや引きこもり、非行、無差別殺人、幼児虐待…という色んな問題を抱えているわけですが、根本的には皆同じだと思って見ています。みんな病み方は同じ。その中で、たまたま両親の意向でここに来て一時を過ごすんです。
 不登校の子どもを受け入れていた時代から、中途退学者、非行少年、薬物依存…。色んな若者たちが来たけれど、里にいる期間は人それぞれ。やっぱりどこかで仕事に就く訓練をしないと、明らかにうまく社会に適応できない子も出てきます。なので、現・理事長である息子の発案で、帰す前にここで仕事に就く訓練をさせています。近くの旅館やホテルのランドリー、蔵王スキー場の山頂駅での接客、土木関係…。現在は、常時5、6人が仕事に出ているという状態です。
 その中で私は長い時間生きてきたことで生まれた知恵はあると思うので、一人ひとりを見ていて、この子にはこれがピッタリだ、ベターだと思うことを1つ、2つヒントとしてあげます。そして、彼ないし彼女がそれをやれるようになるのを待つんです。
 でも、重度のアスペルガー症候群の子どものように待っても待っても待ってもうまくいかない子も中にはいるわけです。親御さんとしても悩み抜いた末に、あるいは同じような施設をいくつも渡り歩いてきた末に崖っぷちに追いつめられたような感覚でここに預けるという決断をされる方も多く、生まれてこの方、どの時期においてもうまくいっていないことの連続だったという子どもも多いわけですよね。実際、中には、ここでの生活は難しすぎるからと、精神科医に相談して検査してみたところ、一般の社会では生きていけないと判断される子もいます。ここに来て初めて、それがわかる場合もあります。高校を卒業して文章も書けるのに、日常会話が全く成り立たないことがあったり、食事が並んだ食卓の周りを飛び跳ねながら走り回ったり。突出した例ですが、客室で糞便をしたり、素っ裸で洗面所にいたりとあまりにもおかしいことが続くことがあるんです。やっぱり、ここに来るのは世間一般の常識からは想像できないような凄まじい生活を送ってきた子がほとんどですから。
 だから、ちゃんと優しくやさしく真綿でくるむようにしながら彼らが変わっていくのを待つ時間って大切ですよ。でも、どちらかと言うと、「やってはいけないことはやってはいけないことなんだ」と諭しながらも、「こういう風にやったらうまくいくよ」と投げかけるような接し方をしています。子どもによって変わってゆくスピードは人それぞれ。短期間で変わる子もいれば、5年くらいかかってようやく変わる子もいます。それでも、待たなきゃいけない。待ちましょう、待ちましょうと自分の体の中に言葉を取り込むようにしていますけどね。
 かつて、6年半という時間を里で過ごし、家族のもとへと帰っていった男の子がいました。彼の両親はともに公務員。弟二人は高校生で、いずれは大学に進学するというその家庭に帰る際に私は言いました、「両親は6年半ここにいたあなたに、私立の大学を出る以上の費用を払ってくれているはず。そのことを生涯忘れるでないよ。親をこの後粗末にしたら、私が許さないからね」と。他には、3つの仕事を掛け持ちしながら、ここで過ごす息子の費用を捻出していた母子家庭のお母さんもいらっしゃいました。なので、基本的には里を離れる子供たちに「出来れば結婚して家庭を持って、親を大事にしてほしい」という言葉を贈ります。私が最後に突きつけるプレゼントであり要求として。
 というのもやっぱり、穏やかな夫婦関係、親子関係こそが一番の宝だと思いますから。もちろん、色んな冒険や危険なことも必要でしょう。でも、そういう穏やかな家庭で築ける穏やかな暮らしが人にとって一番の幸せなんじゃないかな。両親が合わせて4つの目を子どもに注ぎ、加えてじじばばがいたら8つの目が加わる。それに、おじやおばがいて、いとこたちとも仲良くしていたりしたら、どれほどの目が子どもに注がれることでしょうか。

親御さんに伝えたいこと
 でも、そうやって目を注ぐことを意図的に遮断してしまう親御さんがいます。それは子どもに対して失礼だと思います。不登校や非行の子を恥じる親御さんもいらっしゃいますが、強い憤りを感じます。だって、その子の存在を恥じるってことはいない方がいいってことでしょう?親がそう思っていて、子どもが良くなるわけないじゃないですか。
 とにかく、自分の子を貶めないでほしいんです。例えば、2人兄弟、3人兄弟でものすごく出来のいい子と、そうでない子というように兄弟間の落差が顕著なパターンって少なくないんですよ。例えば、長兄は医学部、次兄は薬学部、でも末っ子は…という風に。その家庭の親御さんにはこう伝えました。「9教科全部出来るってありえないでしょう。数英国と3教科がダメだったら、理科か社会のどっちかが良かったらいいじゃない。もしそれもダメなら、体育はどうか。美術はどうか…」「勉強は出来ないけれど、掃除は真面目にする。そういうのは素晴らしいと思う。将来、清掃会社を作れるかもしれないじゃない」と。そして、「病気の時に、お茶を持ってきてくれたり、お粥を作ってくれたりするのは3人のうち誰?」と訊くと、「この子です」とおっしゃるんです。「ほら見てごらん。将来、親の面倒を見るのはこの子かもしれないじゃない。そんなに出来のいい二人のお兄ちゃんが大事?私はこの子の方がかわいいって思うけどな」と伝えたこともありました。教員時代、保護者会の時にもいつも”一点豪華主義”を語っていました。「一つできればいい。何か一つ秀でたものがあれば、それが華となり、人は十分生きていけるんだから。だから、自分の子を貶めないで」って。
 そして、仮にここに預けて子どもが「更正」したとしても、そのことを喜ぶだけ、あるいは学校の教師のせいにするだけでとどまらずに、この子に対して残酷なことをしてきたかもしれない、かわいそうなことをしてきたかもしれない…と育てる過程で自分たちにも何か悪いところがあったと思ってほしいし、気づいてほしいんです。そこに気づいて頂くことで初めて”ダメな子”を見つめる目に違いが出てくると感じていますから。
 なので、「里に預けたい」と子どもを連れてきた親御さんにきっぱり告げることもあります、「失礼ながら、ご夫婦仲が良さそうにしていますけど違いますよね。うちの子は不登校だっておっしゃいますけど、お母さん、自分の子の顔をよく見てください。これは不登校ですか?非行って言うんですよ」というように。
 結局、子どもを見ていないんだと思うんです。愛情と称して、子どもを甘やかしてきているからじゃないかって。子どもにちゃんとモノが言えないのも、「ここに住所を移すから、市立の中学校に行け」と、父親として子どもに要求できないのもそこに起因しているんだろうなってことが最近わかってきたんです。
 だから、そういった親御さんたちと私自身を比べてみて、不思議に思ってしまいます。以前、健康上の理由で娘が都会に住むのが危険だと判断した私は彼女に言いました、「絶対大阪と東京に住むことは許さない。もし住んだら邪魔するから」と。実際に、彼女が住んでいたアパートを変えさせました。では、なぜそれができるか。それは、その時どきで精一杯(自身の)子供たちに目を向けてきたという自負があるからなんです。特に生まれつき喘息を持っていた次女を産んでからは、しばらくの間、睡眠時間をほとんどとらずに過ごしました。ウエストは60センチを下回り、体重も全然増えませんでした。着るものもなかったので、タイトスカートを10枚作りました。(今となってははけるはずもないんですけど、懐かしくて捨てられずにとっています。(笑))そうやって体を壊してまで自分の子供たちを見てきたからこそ、彼らに対して強く言えるんですよね。
 ひるがえって、私の子ども時代を思い返すと、ものすごく飢えたという体験が甦ってきます。私が小学校に入学した1945年から高校を卒業する1957年までの12年間の中で弁当は持って行けず、小学校の6年間はずっと通信簿に「栄養不良」の文字が並んでいました。また、小学校の学芸会で必要な衣裳を、親は作ってくれませんでした。中学校の時も、親は授業で必要な国語辞典を買ってくれませんでした。ところがどっこい。3つ歳下の妹と話すと、全然違うわけですよ。「姉さん、どうしていつもそういうことを言うの?私はちゃんと食べていたわよ。弁当も毎日持って行っていたよ。あれもこれも買ってもらったよ」そう彼女は言うわけですよね。当時、日本は戦後復興期であり、3年で大きな差が生まれていたことは確かです。誰を責めても仕方がないことだとはわかっています。過去をほじくり返して親を追いつめようと思っているわけでもありません。だとしても…と思う気持ちは拭い去れないんですよね。その違いは何なのかと子供心に色々考えました。大人になっても時々ふっと考えます。果たして衣裳を縫えないほど困窮していたのだろうかと。いや、酒屋をやっていたからそんなはずはない。ならば夫婦間の軋轢によるものだったのだろうかと。あるいは母は私を嫌っていたのだろうかと…。だから両親にいつかその理由を尋ねたい。でも訊いてはいけないような気もする…。そんな葛藤を胸に抱えていた中で、とうとう訊けぬまま親には逝かれてしまいましたけどね。
 だけども、そうやって着せてもらえなかったこと、食べさせてもらえなかったこと、学用品もろくすっぽ買ってもらえなかったこと。そういう経験があるから、もし自分が親ならば、旦那と喧嘩してでもおそらく買い与えるであろう、食わせてやるであろう、衣裳も縫ってやるであろうと思う気持ちが生まれたのかもしれません。自分の子を寝ないで看病してきたのもそういう経験があるからなのかもしれません。
 まぁでも、きっとどこの家庭でもそうだろうけど、親の子に対する感情、子の親に対する感情はそれぞれ全く同じではないはず。出来のよさにつけ悪さにつけ、かわいさにつけ決して同じじゃない。自身の体験としてそれを知れたことは、後々生きたと思いますけどね。

恵まれていた私
 83年3月。44歳で教師を辞め、同じく教師だった夫と三人の子どもと共に蔵王へとやって来た私は「よく教師を辞めてきましたね」と何度も言われてきました。「何でこの仕事をできるんですか?」ともよく訊かれてきました。その答えの一つは、私の子ども時代にあるのかもしれません。
 ――新潟の高校に通っていた高校3年の時のことです。問題を抱えた青少年を診るお医者さんの著書を読んで興味を抱いた私は、その方に「どうやったらそういう仕事をできるのか?」ということを尋ねた内容を含んだお手紙を書きました。そしたらある時、その方が「この手紙を書いたのは君かね」と高校まで訪ねてきてくれたんですよ。そして、サインした著書をくれた上に、「大学に行ってしっかり勉強すればなれるよ」と私の質問にもすごく丁寧に答えてくれました。たまたま私が行っていた高校がその方の母校だったこともあったのかもしれません。だとしても、たかが一女学生のために訪ねてきてくれたという事実は、すごい人がいるんだなという感動を私に与えてくれました。配慮してくれる大人のやさしさに触れられたというか。なぜなら、「大学に行けばいいんだよ」というたった一言を言いに来てくれたわけですから。
 中学校の時も然り。私はクラスで唯一国語の辞書を買ってもらえない子どもでした。物心もつくかつかないかの頃に両親を亡くし、親戚からたらい回しにされた子ども時代を送った父は学校には通っていたのかどうかはわかりませんが、独学で勉強し、印刷会社で版が組めるまでになったといいます。そんな父は、自分の辞書は持っていましたが、子どもの私には買い与えてはくれませんでした。そんな私を見かねてか、新学期早々、国語の授業で辞書の引き方を教わる時間があった時、クラス担任の先生が「何だお前、まだ辞書買ってもらってないのか。じゃあこれを使え」と自分の辞書をポーンと投げてよこしてくれたんです。その先生には他にも色々と目をかけてもらいました。
 小学校の時には、家では調達できなかった学芸会で着る衣裳を先生に用意してもらったこともありました。

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