#71 NPO法人東北青少年自立支援センター 施設長 岩川久子さん


 そんな風に小学校、中学校、高校時代といい大人に恵まれたことも大きかったでしょうね。きっとそうやって大人から大切にしてもらった分、かわいがってもらえた分を、大人になってから誰かに返しているということなんだと思うんです。
 78年から83年まで。不登校の学級を持った足立区の中学校で過ごした5年間の中で、1年だけ健常学級(中学3年生)を持ったことがありました。そのクラスの中に、都の二種住宅で暮らす、前歯4本真っ黒けの女の子がいました。彼女の家は母子家庭。「家庭の事情で卒業後は働かなきゃいけないけれど、どうしても学校に行きたい」と話す彼女に、私は働きながら通える(当時はまだ珍しかった)代々木の三部制の学校に行くことを勧めました。でも、その前歯ではどこの会社でも採ってくれないだろうと思った私は、彼女に尋ねたんです。「あなた、なぜ歯医者に行かないの?」と。すると「うっせーな!!先立つものがありゃ、行くよ!!」という20数年教員をやってきて、初めて耳にした言葉が返って来たのです。しかも女の子から。その時、私は圧倒されて言葉が出ませんでした。でも、その後すぐに彼女を呼んで訊きました、「もし私がお金あるって言ったら、あなた歯医者に行ける?」と。そしたら「行きたい」と。その時、私の頭に浮かんだのは20万弱ほどの金額をもらえる年度末手当でした。「私、今回使う予定があるけれど、あなたにそっくり貸してあげる。でも、絶対にあげない。借用書を書く?」「うん。」「いくら必要なのか、いつなら返せるのかお母さんと相談して決めなさい。ただし、期限は問わない。代々木の学校を卒業して働けるようになってお金が貯まったら持ってくればいい」そう伝えて帰したんです。そして後日、事務長の立ち会いの下、借用書にハンコを押させて親の了承ももらった後、すぐにお金を渡しました。彼女はその後、卒業式までにきれいに歯を治してきました。後日談としては、原宿の衣料品店に就職した彼女は1年経ってから私を追いかけてきて、貸したお金に紙袋2つ分、20着ほどの衣類を添えて返しに来てくれたんです。

私が今ここにいる理由
 ここに来る直前まで、私は4年間足立区の新設中学校で不登校の子供たちの学級(情緒障害児学級)担任をしていました。もっと遡れば、本当は短大を出た後、少女院に勤務するはずだったんです。短大に在学中、教員免許を取得した私は、調布にある少女院を訪問していたことがありました。(といっても、二、三回でしたが。)するとある時、施設のお偉いさんに言われたんです、「天野さん(旧姓)、いつ来てもいいよ。明日から来てもいいよ」って。そして、こう続きました「でも、ここはお休みないからね。」当時、遊び程度でしたが丹沢という沢登りに凝っていた私は思ったんですね、山に登れなくなったら、私は生きていけないって。その方はからかい半分で言ったんでしょうが、真面目に受け取ってしまったんです。今考えれば馬鹿な話なのですが、その一言でこの仕事はダメだと道を閉ざした20歳の私。とは言え、そこで働きたいという気持ちに嘘はなかったんですよね。院で生活する少女たちが裁縫したり、本を読んだりしている姿を見ている中で当初よりしっくりくるものは感じていましたから。…でも、どうしてそういう道に興味を持ったんでしょうね。もしかしたら、自分もそこに入っていたかもしれないと思うところはあったんじゃないかな。そこで時を過ごす少女たちに自分と似たものを感じていたのかもしれませんね。
 中学、高校の頃の私には、仲の良い友達同士が手紙のやりとりをする際に「悪いけど、○○ちゃんにこの手紙を渡しておいてよ」とか、「卒業してこの町を離れる前にあの子と話しておきたいんだけど、チャンスを作ってよ」というような話がなぜかけっこう舞い込んできていたんです。端的に言えば、便利屋というか、人の仲介役みたいなことをやっていたんですよ。しかもけっこう成立させたりもしていて、中には結婚に至った組もいくつかあるんですよね。
 だから、よく考えてみると自分が一番自然な状態でやりたいと思っていることを今の私はやっているんですよね、最近気づいたことなんですけども。中高生時代に便利屋さんみたいなことをやっていたのも、少女院に関心を持っていたのも、「一番就職率がいいから」という理由で選んだ教員を24年やったのも、全てはここへ到達するためだったんだなって。親から「してもらえなかった」子供時代を送ったこともきっと私の運命。高校時代、四大への進学を希望するも叶わず、短大ではたった2年の大学生活しか送れなかったけれど、色んなことを勉強しました。勉強させてもらいました。教員時代は、保護者会などで子を持つ親の気持ちを知れました。親の涙もたくさん見てきました。一方、学校内では校長になりたい人や、校長にならずにいつまでも子どもと接していたいと思う人にも出逢ってきました。足立区の中学校にいた時は、いつ事件を起こしてもおかしくない日常を送っている子供たちとも接してきました。そんな過去を経て、今日ここにいる私に変わってきたんだなと思えるようになってきた今の私がいる。だから思うんですよね、すごく幸せな人生だなって。
 この山荘はどこからも支援は受けていません。親御さんたちが払ってくれる費用でしか賄えない。だから、私がもらっているのは月5万円だけ。それでも生きていけるのは、家族みな1つ屋根の下で暮らしているから。ボーナスもないし、休日もない。我ながらよくやるよなぁとは思いますよ。(笑)まぁでも、生き方の問題だから、それでもよしとしていますけどね。
 約6年前から、息子夫婦もそれぞれ営業マンと看護師を辞めてここで働くようになりました。――彼らがここに来る少し前のことです。歳も歳だし、いずれ息子が「後を継ぐ」と思ってくれれば嬉しいなという思いが私の中にも芽生えてきていたんです。もし無理ならば他人を入れて引き継いでもらうか、あるいは少しずつ消滅する形で突然閉じるかと里の行く先に思いを巡らせていました。そうしてもうそろそろ時機だなという時に訊いたら、「あと5年待ってくれるか」という答えが。私と一昨年?亡くなった夫は、その言葉を頼みの綱にやってきましたからね。きっと、彼らもこのままやっていくでしょう。もう、ここは全国ネットですから。

私を動かしてきたもの 
 教員時代の縁で、今でもモノを贈ってくださるお母さんがいます。「東京に来たら、うちに泊まんなさいよ」と言ってくださるお母さんもいます。私が東京を離れてここに来て1ヶ月後くらいに、5、6人で訪ねてきてくれたお母さんたちもいます。もちろん私のことを大嫌いな人もいるでしょうし、憎んでいる人もたくさんいるでしょう。でも、そういう風に慕ってくれる人がいるのは幸せなことですよね。
 何でしょう…。私って人間が安っぽいのかしら。もしかしたら次元が低いところで生きているのかもしれない。里の子供に対しても、どっちでもいいくだらないことにいちいち口出ししてしまいますから。だから例えば、子供にあげるためのお菓子を個人的に買いためていたりするんです。そして、お菓子が欲しそうな顔をしているな~って思うと、すぐにあげちゃうんです。「一つだけだよ。誰にも言っちゃだめだよ。」と言いながらみんなにあげちゃう。(笑)まぁ、私がそうやっていることはみんな知っているんですけどね。(笑)
 何はともあれ、200円、300円のたった一箱のお菓子で彼らの気持ちを変えるなり、心を和ませるなり、何かしらプラスの方に働くのであれば、それはお金では換算できない価値を生むと思うんです。かつて私が先生から辞書をもらって嬉しかった時のように。
 20年ほど前のことです。NHKが私たち(私と夫)を題材にして制作した「妻と夫の実年時代」という番組が全国放送されました。その番組が終わるやいなや、私が教員になりたての頃に受け持ったクラスにいた男の子のお母さんから電話があったんです。「ほんとに天野先生!?ほんとに天野先生!?今テレビ見たばっかりよ!」と高ぶった声で。すると数週間後、彼女は息子と息子の嫁さんを連れてここに来てくれました。そこで、彼女はバッグから1枚の封筒を取り出し、こう言ったんです。「天野先生から頂いたこの手紙のおかげで私は生きてこれました」
 ――遡ること約50年前。当時勤めていた羽田の中学校で担任をしていたクラスに「非行少年」の男の子がいました。しょっちゅう親が呼び出されて、校長や学年主任に叱られているような男の子でした。クラス担任は事情があって数ヶ月で外されたし、体育教諭だったので直接彼に教えてもいません。要するに、それほど深い関わりはなかったのです。それでも「○○ちゃんはすごく優しくていい子よ。何にも悪い所なんてないです」と書いた手紙を送った新米教師の私。50歳になってみると見るのも恥ずかしいような下手くそな字で、でも一生懸命書いたということは伝わってくるその手紙を、彼のお母さんは数十年の間、へそくりを入れておく場所に大事にしまってくれていたとか。そんな彼女がくれた「この手紙のおかげで…」との言葉は、私にとって最高の賛辞でした。
 それから、つい先日のことです。あるお母さんがほんとに嬉しそうな顔をして、里で1年程過ごした後に実家へと戻った息子の運転でここにやってきたのです。そして、たくあんを持って来てここで漬けてくれました。――少し知能が低いところがあるけれども、シャバで働くことはできる。でも、すぐに失敗してしまう。そんな子だった彼のすさまじい家庭内暴力に悩まされていた家族は、家庭内暴力や非行などの問題を抱えた子どもたちに更正支援を行う岐阜の翼トレーニングスクールに彼を入れたとか。そこではどこかしらの工場で仕事をするのが日課でした。けれども、そのレベルに満たない子は行かせてもらえず、部屋の中でテレビを見るなり、本を読むなり好き勝手していていい一日を過ごしてもいいとされる、つまりは自分が激しく変わらなければならない厳しい環境でした。そこで病んでしまって、こちらに回されてくる子もいるのですが、その一人としてそこで打ちのめされた彼も母親に連れられてここへやって来たのが、彼と彼のお母さんとの最初の出逢いでした。
 1年ぶりに会った彼女に私は訊きました、「お母さんずい分いい顔してるじゃない?どうしたの?」って。すると、「いやぁ、この子は今や別人のようで、掃除や洗濯はしてくれるし、料理も手伝ってくれる。こんな子になるなんて夢にも思わなんだ」とまるで私を神様のように言ってくれるんです。きっと、元々そういう所を持っていた子だったんでしょう。「でもお母さん、今だから言うけど、初めて来た時本当に憎らしそうに息子のこと見ていたじゃない?私、あの時、すごく苦しかった」と言いました。「切なかった」と言いました。
 そんな風にお母さんの驚くほどの変化を目の当たりにしたら、嬉しくってねぇ。そういう喜びって、「日常の中のささやかな喜び」と呼ぶのかもしれません。「自身がそういうことを成し遂げて親が喜んでくれる」と言うのもおかしな話だから、「ささやか」という表現を使っています。でも、本音ではすごいことなんじゃないかと思っている私もいるんですよ。それに、本当はささやかなんかじゃない。ものすごく大きな喜びです。そういったお父さん、お母さんの変化だったり、子ども自身の変化に立ち会う度に私の中で湧き起こってくるものがあったから、私はこの仕事を続けてこられたのかもしれませんね。
 


<編集後記>

世の中にはきっと、痛みを知る人だからこそできる仕事があるのだろう。

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