#73 OUTDOOR SHOP DECEMBER 代表 菊地大二郎さん

73 菊池大二郎さん

「一旗あげたいという思いがあるんでしょうね」

 

1973年生。岩手県一関市出身、山形市在住。東北芸工大美術科彫刻コース、同大大学院美術文化専攻時代は美術家を目指し、制作活動に取り組む。卒業後すぐ、東京に移住。飲食店等でアルバイトをしながら、フリーランスとして美術制作、グラフィックデザイン、Webデザイン、店舗内装、家具、什器の制作や写真などの仕事をこなす傍ら、制作活動も行う。2005年4月、山形市に移住。同年10月には居酒屋をオープン。以後は、居酒屋や喫茶店の運営などを経て、09年1月、アウトドア用品を取り扱うOUTDOOR SHOP DECEMBERをオープン。以来、オリジナルブランド品の開発(実制作は妻が担当)や体験ツアーの案内なども並行しておこなっている。

記事公開:2014-7-19

 

山形に戻ってきた理由(わけ)
 「もはや自分が東京にいる意味はなくなっちゃってたんです。」
 菊地が東北芸術工科大学大学院(美術文化専攻)を卒業して以来7年間過ごした東京を離れ、再び山形の地で暮らし始めたのは2005年4月のことだ。
「そもそも僕が住む場所として東京を選んだのは、日本の中心に一度は行ってみたいという思いがあったから、そして地方生まれに由来する東京へのコンプレックスがいつも胸にあったからです。ただ、東京でずっと暮らすつもりはなく、その時すでに「35歳には山形ないしは(実家のある)岩手に戻ってくる」ことは決めていました。」
 98年3月、大学院を卒業した菊地は東京へ移住。その後はいわゆるフリーターのような形でアルバイトをしながら、アトリエに変貌させたアパートの部屋や屋外スペースを活用し、現代美術の制作活動を続けた。
「当時の夢は、美術家になること。並行してデザインや家具づくりもやりたいという思いもありました。とにかく美術に対する想いは熱かったんですよね、特に東京で暮らし始めたばかりの頃は。」
 菊地は東京生活4年目、01年頃からフリーランスとして、家具やデザインの制作などの仕事を請け負うようにもなった。「やれることは何でも引き受けてやっていた」菊地の仕事内容は多岐にわたり、過去に一度もやったことのない植木屋の仕事を依頼され引き受けたことすらあったという。
 ところが、 同じく01年頃から菊地のライフスタイルは徐々に形を変えてゆく。いつしか制作活動は滞るようになり、04年頃からはしばらく離れていた釣りなどの野外遊びにも出かけるようになった。
「東京生活終盤、特に最後の1年間はさほどお金に困るようなこともなく、「仕事をする日は仕事、休みの日は遊び」とそれなりに充実した楽しい日々を過ごせるようになっていました。
 きっと東京での生活に慣れてきてこなせるようになったんでしょうね。と同時に、東京に対するコンプレックスも消えていきました。でもそれと引き換えに、当初あったストイックさは影をひそめていったんです。それに制作活動をせず、「家で仕事をして、休みはどこかに遊びに行って、近くのスーパーで買い物をして…」という生活をするんだったら、東京にいる意味はないなと。
 実際、東京で野外遊びをし始めると、子供の頃に味わった遊びの楽しさがよみがえってくるのと同時に、外で遊ぶには最高の場所である「山形」の存在は僕の中でどんどん大きくなってくるにつれて、35歳まで待てない、今すぐにでも行きたいという思いが膨らんできたんです。」
 05年4月に山形へ移住した後、家具を作りたいとの思いゆえに、家具を作るための工房を確保できる物件探しを始めた菊地だったが、そのさなかに“軌道修正”をする。
「ここで飲食店をやったら面白いなという物件があったんです。というのも、元々、やりたいことの候補の中の一つに「飲食店」もあったんですよね。それで、家具屋と飲食店を天秤にかけた結果、収入面で固い飲食店を手がけてみようと。あとは、とにかくやってみたいという思いがあったんでしょうね。8月に思い立って、10月にオープンさせるというけっこう唐突な行動に出ましたから。」
 居酒屋を始めるにあたって、菊地はこう決めていた。2年間で店を畳むか、誰かにゆずる――。
「そこにどっぷりと浸かりたくはないというか、家具作りもやりたかったし、美術制作もいずれ再開しようとは考えていたんです。」
 実際、菊地の計画通りに事は運んだ。3年目(07年)からは「いずれはこの店を引き継ぎたい」との思いで入ってきたアルバイトの従業員に店を譲り、自身は現在DECEMBERの工房として使用している場所に喫茶店をオープン。遊びを再開していた菊地は、喫茶店に来る客からアウトドアに関する相談を受けることがしだいに増え、08年に居酒屋を完全に手放した後の09年1月、まずは手持ちの道具を店頭に並べるところからDECEMBERを始動させたのである。2010年頃には喫茶店は完全に工房と化し消滅。以来、菊地はアウトドア用品の店頭およびWebでの販売、オリジナルブランド品の開発、ツアーの案内といくつかの仕事を並行してこなしている。
「この9年を振り返ってみて、何か新しいことを始める、手がけるというのは得意なんだと思うんです。でも、逆に、運営はあまり向いていない。(笑)というのも、始めたことを継続していく中でまた次のことをやりたくなってしまうから。自分ではさほど意識していなかったんですけど、喫茶店の内装にしてもコロコロ変わっていたらしくて、2ヶ月に一度くらい来るお客さんが言うには「来るたびに中身が変わっているよね」と。しかも、また今、居住地を移すという形で環境を変えようとしている自分がいるわけです。
 きっと、何か新しいことをやっているのが好きなんでしょうね。実際、そういう時は一番わくわくしていますから。ただ、そんなときめきは決して長くは続かない。例えば店が完成してしまえば、後は薄れていく一方なわけで。
 でも、自身にとっては苦手な運営も「作る」という過程の一つに組み込まれているわけですよね。むしろ、出来上がった時の形よりも、その後の時の流れによってお店は作られていくものというか、形を作った後に継続していくことが、本当の意味で「お店を作る」ってことなんだと思うんです。
 まぁ、やりたいことに次から次へと手を出してしまうのは自身の「クセ」なんですよね――。
 遡ると、10代の頃の僕にはいわゆるモノづくりをしたいという明快な思いがあり、当時の夢は「陶芸家」でした。」
 幼い頃から手先が器用だった菊地は、粘土細工においてその能力を遺憾なく発揮。小学校低学年のときからすでに菊地の作る作品は一般的な大人が作るそれに匹敵するものであり、小学校5年のときに夏休みの課題として作った作品は、教師から「親が作ったものを持ってきたらダメだ」と叱責を受けるほどだった。ゆえに、菊地は周りの大人たちから「陶芸家になればいいんじゃないか?」と言われることが多かったという。
「みんなが言うもんだから、自然と自分でもそう思うようになり、美大一本に進学先を定めるなどビジョンは明確になっていました。
 ただ、粘土に関しては人より先に進んでいたというだけ。中学生になってみんなが同じように作れるようになると、今まで感じていた優越感はなくなり少し挫折感を覚えました。(笑)それこそ高校生になると、僕よりはるかにうまい子はたくさん現れてきましたしね。」
 現在仕事の一つとしているカメラも子供の頃から好きなものの一つであった。小学校の頃から頻繁に写真を撮っていた菊地は、将来やりたい仕事としてカメラマンを意識していた時期もあった。
 また、小学校低学年頃から部屋のインテリアに興味を持ち始めた菊地は、中学校の頃にはインテリア雑誌に目を通すようになり、実際に自分の部屋の模様替えを月に1度くらいのペースでおこなっていた。
「ソファーにカバーをかけて、そのそばに観葉植物を置いたり、たまたま雑誌で見かけた「水槽の周りに観葉植物を並べてジャングルを模したインテリア」を取り入れてみたり。いるものは家の中から勝手に持ってきて、いらないものは他の部屋に持って行って…ということを繰り返したあげく、しまいには母親の大事にしていた照明を勝手に持っていった上に改造してすごく怒られたこともありました。(笑)
 とにかく、子供部屋ではなかったというか、今住んでいる部屋とさして変わらない造りだったんですよね。」
 そういった当時の趣味も影響したのか、高校生となり、大学への進学を考えるようになった菊地は当初デザイン科を志望。だが、予備校の夏期講習を受講するにあたり、人気のあるデザイン科の空きはゼロ。その際、予備校の教務課の職員から紹介されたのが空きがある「彫刻科」だった。
「そこで思い出したわけですよ、そういえばおれ粘土得意だったなと。だったらやっぱり彫刻だよねと、あまり迷うことなく志望学科をスイッチしたんです。
 そう考えると、色んなものに手を出すという習性は子供の頃から変わっていないんだなと。でも、それを「クセ」として自覚するようになったのは20代の頃からなんですよね。」

胸にたゆたう思い
「やりたいことがたくさんあって、それなりにこなすこともできる。でも本当は、これをやると決めて、それに向かってまっすぐ進む方が大きな力を発揮できるし、そうなりたいという思いもある。要は、器用なんだけど抜きん出ることはできないわけですよ。だから、それなりに評価はついたとしても、やっぱり「それなり」以上のものにはならない。
 ただ、そんな風に「色々できるマルチな僕」に対して「それはそれでいいんじゃないか」と言う友人もいて、自身としてもそれに納得はするし、実際マルチな活動をしている著名人に対する憧れはあった。でも一方で、スペシャリストへの憧れは心のどこかにあって消えることはないわけですよね。かといって、マルチであることは自分の価値でもあるから、嫌いではないし、むしろ誇れるところだったりする。おまけにやりたくてやっているんだからしょうがないかとも思うし、自由に生きられているというか、やりたいことをその時々でやれてきているのだから幸せっちゃ幸せ。でも、何か一つに絞った方がいいのかな…という思いもたまに湧いてくるんです。」
 東京生活を始めた当初、胸に宿していた「美術家になる」との熱い思いは、いつしか冷めてゆき、04年頃からは制作活動を休止した菊地。
「実際、不毛っちゃ不毛なんですよね、美術作品の制作活動っていうのは。「制作して展覧会を開いて、また制作して展覧会を開いて…」という地味な作業の繰り返しですから。」
 そこで菊地が2000年から02年にかけて友人と二人で取り組んだのが「路上パフォーマンス」だった。
具体的には、タキシードを着た二人が突如として人ごみの中に現れ、長さ約20メートルの赤い絨毯を主に都内にある駅の出口のような人が通りそうなところにバーッと敷き、二人は側にたたずんでいるというものだった。
「日常の中に非日常的なものがあったらおもしろいなという発想で作り出した、いわば非日常空間だったんです。
とにかく、まずみんな絨毯の上を歩けないんですよ。気づかず近づいてきた人でも、目前でその存在に気づくと慌てて立ち止まったり。上を通らざるを得ない場所に敷いた時には怒り出す人もいました。そんな風に実際やってみると、色んなことが見えてきておもしろかったですね。
 たとえば、国民性みたいなものはすごくはっきり見えたんです。顕著だったのは、日本人は「それはそれ自体で成立している」ってことが他国の人に比べて圧倒的に理解できないということ。実際、多くの人から「誰が来るんですか?」「何の取材ですか?」という問いかけをされましたから。

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