#75 染色作家 / 版画家 / 絵本作家  田島征彦さん

# 田島征彦さん
「これからおれの新しい人生が始まるんやと思えるくらいの今があるんです」

1940年生。大阪府堺市生まれ。5歳から高校卒業まで高知で暮らす。京都市美術大学(現・京都市芸術大学)染織図科在籍時は、授業そっちのけで劇団アトリエ座の活動に没頭。一転、同大専攻科に進んでからは染色による作品づくりに真面目に取り組む。専攻科修了後は、婦人服地の会社、画廊の運営、大阪芸術大学非常勤講師、京都家政短期大学非常勤講師などの職を経て1970年より成安女子短期大学講師。71年には荒木英子と結婚。三人の子をもうける。授業の傍ら、作家活動を続ける中で、いくつかの賞を受賞 ※。75年には講師職を辞し、作家活動に専念するようになる。以降、絵本の分野では処女作から三作連続で賞を獲得 ※。以後、20点以上の絵本を出版、絵本原画展や型絵染作品の展示も逐次開催。2011年には京都府文化功労賞を受賞。著書の中には『くちたんばのんのんき』(1979)などのエッセイ集もある。絵本作家として知られる田島征三は双子の弟。2001年より淡路島で暮らしている。

記事公開:2014-9-18

 

※  型絵染作品で芸術生活画廊賞(1971)、日仏現代美術展佳作賞(1974)、京都府洋画版画新人賞(1975)を受賞。
※  処女作『祇園祭』(1976)では世界絵本原画ヴェンナーレ展金牌賞、二作目『じごくのそうべえ』(1978)では第一回絵本にっぽん賞、三作目『火の笛 ―祇園祭絵巻―』(1980)では小学館絵画賞を受賞。

 

染色の世界に迷い込んで…
「そもそもぼくは染色とか工芸のような仕事には向いていなかったんです」 「美大は自由な場所だから、好きなことをやっていてもいい」という高校の美術教師の言葉を信じた征彦が、京都市美術大学染織図科に入学してから半世紀以上が経つ。20代の後半頃には「型絵染はやめるつもりで、染色の器具は全て染色を習っていた美しい女性にやってしまったり」、30代の後半には「型絵染を辞めて油絵を描こうと決心」し、キャスター付きの高価な画架まで購入したりと迷いに迷った征彦が周囲から「染色作家」と呼ばれるようになり、自身の中でも「布を染めることがぼくの宿命だと思えるようになった」のはごく最近のことだ。
「まず、身体の機能的に向いていませんでしたから」
 遡ること70年以上前――。征彦は1940年1月9日、一卵性双生児として戸籍上の弟・征三と共にこの世に生を受けた。
 当初順調に育っていた二人は、生後10ヶ月頃、重い腸炎を患った。症状は長引き、2歳半にならんという頃にもいまだ二人は歩けない状態だったが、祖父が灸をすえたことにより、みるみるうちに病気は治癒に向かう。まだ乳児の死亡率も高い当時のこと。助かるまいという周囲の予想に反して生き延びた二人だったが、乏しい運動機能が後遺症として残った。
 敗戦後、父の故郷である高知県の山里に引っ越した田島一家。まだクレヨンや紙などの恵まれたものなどない当時である。幼い頃から絵が描くのが好きだった二人は、木の棒切れで無心になって地面に絵を描いた。周りに絵描きがいたわけでもなく、絵に興味を持つほどの余裕など家族にはない。だが、二人はなぜか大人になったら絵描きになることを決めていた。
 小学校の頃、征彦は図工の時間が好きだった。だがその気持ちとは裏腹に、授業の終わりになるといつも大声で泣き叫んでいた。気持ちに身体がついてこない歯がゆさが原因だった。
「クレヨンで紙に色を塗っていると、すぐに紙を破いてしまうんです。配給される紙の質はよくないから、やわらかく、やさしく塗らなあかんことはわかっている。でも、必死になったらそういう意識はどこかへ追いやられてしまって、気付くと大きな穴を空けていたんです。要するに、不器用だったんですよね」
 細やかさを求められる作業はおしなべて苦手。成長しても不器用さが改善されることはなく、中学・高校の頃になっても征彦が描く絵は「大胆になぐり書いたようなもの」ばかりだった。
「かたや、弟の征三はわりと器用で細かいことも出来ていました。だから、すごく葛藤はあったし、それが喧嘩に発展したことも一度や二度ではありません」
 父親がつけた呼び名は、征三が「おさるのモンちゃん」、征彦が「のろまのブーちゃん」。
「征三は口も達者で、「才能を信頼していた」彼から「ゆきちゃんは絵描きには向いてない」と言われていると、ほんまかなと思ってしまって」
 徐々に自信を失くしていった征彦は、高校生の頃には絵を諦めるところまでいく。絵描きに変わる夢として、征三が勧めた漫画家を目指したこともあった。中学生の頃から政治に関心を持っていたがゆえに、社会思想家になろうかと考えたこともあった。だが、漫画を描けば、利発で器用な征三には嗤われ、なんとなく憧れた「植木枝盛」の著者である家永三郎がいる東京教育大学に進学したいと希望すれば、教師に「自分の学力を考えてみい」と叱られた。向かうべきゴールがわからないまま送る高校生活は、ただただ空しく過ぎていった。
 一方の征三は高校1年の頃から東京芸術大学デザイン学科に目標を定め、受験勉強に取りかかっていた。
 そもそも征彦が育った高知の田舎は保守的な風土であった。浪人は禁止。「絵描きになる」という夢を語ればとんだ戯れ言と大反対を食らう。だが、デザインブームに火がつき始めていた当時、デザイナーや図案家であれば会社勤めができると両親をうまく説得した征彦は、美大を受験する許可を得た。
「結果的には再び絵を志したわけですけど、遅すぎましたよね」
 きっかけは、高校3年生になる直前。高知大丸で開かれた展覧会で福沢一郎の絵を目にして「何だか説明できない感動に揺さぶられた」ことだった。
 翌日、福沢一郎の絵を模写した絵を美術教師の高崎に見せた際、「征三くんより面白いものを持っている」と評価されたことに何より驚いた。「踊りだしたくなるほど嬉しかった。」そして心機一転、美大を受験してみたいと高崎に相談を持ちかけるも、返答は「さすがに遅いよ」。征彦の中で「希望の光は一瞬光っただけで、消えてしまう」
 だが、翌日、高崎は征彦を呼び出し、助け舟を出した。
「美術大学というのはものすごく自由なところだ。自分の学科の教室を出て、彫刻学科の部屋に行って彫刻を作ったり、油絵を描いたりしてていいんだから。とにかく、入るだけは入りなさい」
そのアドバイスにしたがった征彦は「受験生が女子ばかりだから、男なら受かりやすい」と薦められた京都市美大・染織図案科を受験する。
「今にして思えば、「洋画」コースや「日本画」コースを受けていれば問題なかったんですけどね。というのも、大学に入ってみると、先生が言っていた自由はありませんでしたから。
 染織なんてハナからする気がないのに、染織をしない限り進級できないわけです。確かに交換実習のカリキュラムなどで、漆工芸や陶芸に触れることはできたけれども、不器用な自分には絶対にできないし、面白そうでもない。だから、大学を辞めようと思っていたこともあったんです」
 そんな征彦を大学にとどまらせたのは、京都市美大生によって組織された「劇団美大アトリエ座」だった。大学からの資金援助は拒み、たとえ大赤字を抱えながらではあっても、商業演劇に負けじと大きな舞台で公演していた自称「演劇集団」は、美大の中でも異彩を放っていた。演劇については何も知らない征彦だったが、その気風に惹かれて裏方となる「舞台美術集団」に入団。以後は、学校に来るとその道具小屋に入りびたるようになり、自身の制作活動とは無関係のことばかりやっていた。
 だが、それ以外にやりたいことは見つからないまま時間だけが過ぎてゆく。必修科目の授業にもほとんど出ていない征彦を見かねた教師から退学を勧められたことも何度かあった。
「何せ自分で何かを開拓していきたいという思いが強かったんです。
 ぼくが大学に入った頃は、大阪で具体美術協会(1954年結成)が誕生したり、日本画の分野ではパンリアルという団体(1948年結成)が独自性のある活動を始めていたりするなど、現代美術に分類されるものが既存の美術体系を打ち破ろうとしていた時代でした。陶芸の分野においても、走泥社という陶芸集団(1948年結成)がオブジェ焼という使用用途を持たない独自の作風を確立していっていました。まぁ染色の世界にもそういう機運はなきにしもあらずだったんですけどね」
 その思いは征彦を既存のものを壊すというベクトルへと向かわせた。染織の基礎的な知識もないままに、ある時は友人に頼んで入手した硫酸を型紙にかけて焼き切り、ある時は型絵染で使用する友禅糊や蝋に運動場の砂を混ぜた。大学4年の9月には大阪梅田の画廊で自らが企画した「現代美術の新進作家を気取った個展」を開催。作品には染色のせの字も入りまじってはいなかった。
「当時は20歳前後。我慢できなかったんですよね。長い間、染色の後衛的なところを打ち破りたい、飛び出したいという思いと、その思いが叶わないことへの強い失望がぼくの中には同居していました。結局は飛び出せないまま終わってしまったんですけどね」
 卒業が近づくにつれて、「このまま卒業して就職してしまったら、作品を制作する場所も時間もなくなってしまう」という不安に駆られるようになった征彦はそれらを確保するため専攻科、いわば現在の大学院に残ることを決めた。
「東京では、現代の若者のように、大学卒業後もアルバイトをしながら夢を追いかけることには寛容でした。一方の関西は保守的で「大学を出たら就職をしなきゃいけない」という規範みたいなものがあったんですよね」
 そうして、「染織なんか、卒業してまでもやるものかと豪語していた」征彦は他の進学希望者から反感を買いながらも専攻科を受験。これまでの自身の素行を振り返り不合格を覚悟するも、結果は合格だった。4年間を通じて、ほとんど染織については勉強しなかった征彦だったが、「色々とこすいこともしたりして、何とか卒業までこぎ着けた(笑)」という。
「専攻科に入れてもらって先生と約束した以上、染色をやらないといけないわけです」
 以後、「開き直った」征彦は、休みの日でも学校に出かけていき、朝から晩まで制作場所となる実習室に閉じこもるなど、人が変わったかのように染色による作品づくりに専心するようになったのである。

「闇の季節」を抜け出して…
 専攻科修了後は、それまでアルバイトをしていた婦人服地の会社に、「あくまでも仮の姿として」サラリーマン生活を始めた。だが、会社で徹夜を続けてしまうようになるなど仕事にのめり込んでしまった征彦はいつしか勤め人の範疇を超え、挙げ句の果てには会社と大喧嘩をし、社長に辞表を叩き付けて飛び出すという形にて1年で離職。
 その一件で、「自分にはサラリーマンなどできるわけがないことをつくづく悟った」征彦。
「どこかの大学で助手や非常勤講師をやりながらでも絵を描き続けていけたら…と思うようになったんです。でも、まぁムチャクチャやっていたぼくには、そういう口もなく。(笑)だから、かなり苦しみましたよね。」
 その際、あてにした先輩や知人の一人から紹介されたのは、希望とは違う画廊の運営の仕事だった。だが、征彦は「いずれ素晴らしい画廊へと発展した時、身を引いて画家に画家に専念すればいい」という甘い考えで安請け合いをしてしまう。
 画廊で働くようになった征彦は、「現代日本異色作家展」というシリーズものの企画を打ち立て、自身が見たいと思う作家の個展を次々と開催するようになった。好評を博すも、収支面では支出が収入を大幅に上回り続けた結果、1年もすると画廊の運営はどんどん苦しくなってゆく。そもそも、その画廊はもともと高い技術を誇る額縁屋であり、10人近い職人が働く工場を持っていた。だが、画廊の経営にも手を広げた結果、職人の給料の支払いまで滞るようになってしまった。征彦も、少しでも収入を得るためにと絵を売り歩くようになるが、金になるのは「自身が最も軽蔑してきた」貝殻細工の富士山の額や、鯉を描いた安い日本画だけ。じりじりと追いつめられていった征彦を支えていたのは、少なからぬ応援してくれる人の存在だった。

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