#75 染色作家 / 版画家 / 絵本作家  田島征彦さん

 そうこうするうちに征彦は強度のうつ病を罹患。しばらく後に、画廊は閉鎖に追い込まれることとなり、私生活においても、数年前に「父母を安心させようと焦って選んだ」相手との結婚生活が破綻をきたし始めていた。「闇の季節」だった。
 だが67年には、大阪芸術大学教授・本野からの紹介により、講師の口を確保。染色実習の講師として、週4回大学に通うようになった。「若い学生と一生になって授業を作ってゆく喜び」の前では、片道2時間半、4度の乗り継ぎを必要とする通勤時間もかすみ、征彦は息を吹き返した。
 けれども、そんな「明るく清々しい気分」に浸っていられたのも束の間のこと。最初の給料日に渡された給料は、「常識はずれの薄給」だった。専任講師の約束が反故にされ、副手とされていたのである。
 それをきっかけに学校の事務局とは喧嘩に発展。私生活でも結婚生活は完全に破綻し、離婚に至るなど踏んだり蹴ったりだった。酒におぼれ、慰謝料の支払いで金銭的にも追いつめられた末、征彦は3年ともたずに大阪芸大を飛び出した。ちなみに、この時期に作った作品の多くにつけられた「Fly Out」(1967)というタイトルについて、征彦は「にっちもさっちも動きのとれなくなった、自身の状況からフライ・アウトしたいという願いを込めていたのも確かだった」と書いている。
 だが、長く厳しい冬を迎えるアラスカにも必ず春が訪れるように、「闇の季節」にもいつか終わりはやってくる。
 1970年、京都成安女子短大の染織科研究室にて講師の職を得た征彦。そこで働く一人の女性との出逢いをきっかけに征彦の人生はしだいに好転の兆しを見せ始める。その女性とは、1年後に妻となる荒木英子(ひでこ)であった。
 英子の父から見せてもらった大津絵を木版画にした小さな画集がきっかけとなり、大津絵の「素朴で力強いところに惹かれ、とりこになっていった」征彦。以後、征彦の作風は「土俗的」なものへと向かい始めた。
 そして、大津絵からイメージを引き出して作った作品は、1971年、月刊誌「芸術生活」を発行する芸術生活社が企画する芸術生活画廊賞に入選し、同年10月には個展を開催。「ようやく人生のどん底から這い上がることができた」のだった。
 73年からは、京都新聞の土曜版にて京都、滋賀の祭りを描くカラーページの連載を開始。75年には「土と汗と豚たちの唸り声が爆発した」さまをあらわした自信作「幸福な小作人」にて京都府洋画版画新人賞を受賞。さらに、78年には朝日新聞日曜版の隔週連載、京都新聞夕刊の小説の挿絵を毎日、初エッセイとなる「くちたんばのんのんき」の連載を開始するなど仕事が増え、同年代のサラリーマンと同程度の収入を確保できるようになった。
 妻の英子は結婚生活当初をこう振り返る。
「大学の先生という仕事をしたら生活の安定は得られるし、長い夏休み、冬休みと休みも十分にもらえる。こんなええ仕事があんねやと。「坊主と乞食と先生は3日やったら辞められへん」とはこのことやなと実感しましたから」
 だが、勤め人である限り果たさなければならない義務もある。頻繁に行われる会議はその一つであったが、とにかく征彦は会議が大嫌い。会議のある日にはいつも憂鬱になって帰宅し荒れていた。
 そんな折に出逢ったのが、大阪芸大時代の教え子、高畑正であった。のちに進行性筋萎縮症という難病に冒され29才という若さでこの世を去った高畑の姿は征彦に大きな影響を与えた。
「ぼくはしょうもない会議に無駄な時間を費やしては、作品を作れずに苛々をつのらせている。かたや、死にかけている男が命とひきかえに絵を描いているわけです」
「生々しくどぎつ過ぎたが、うまく作ろうという見る側を意識したところはなく、湧き上がってくる情念であふれていた」高畠の表現は、「家庭を持ち、安定した生活の中でぬくぬくと暮らしている」征彦の負い目に容赦なく突き刺さってきたのだ。
 そして征彦は73年には講師の職を辞めることを決意。相談を持ちかけた相手は誰一人残らず反対したが、75年、辞職に踏み切る。当時、田島夫妻には保育園に通う子供もいた。ゆえに周囲からは、「子供もおんのにどないしてやっていくんや」と非難の声もあがった。
「おかげで、英子には苦労をかけましたけどね」
 英子は当時を振り返る。
「(お宅の旦那さん、)この頃汚い恰好して大井川に魚釣りばっかり行ってるけど女で失敗しはったんか、とか、事故でも起こしはったんか、とかしょっちゅう遠回しに訊かれましたよ。(近所の人からしたら)まさか自らそんなええ仕事を手放すなんて思ってもみないことだったんでしょうね」
 収入は途絶え講師時代の貯金を切り崩しながらの生活が始まったが、当の征彦はようやく念願の自由を手に入れ「たとえようのないほど身も心も解き放たれていた」。
 ちなみに征彦は一年ほど前から暮らし始めた京都府八木町にて、借りた畑で土と親しみながらの作品作りを開始している。
「ぼくの収入を把握している童心社の編集者は「よくこれくらいの収入で生活できていますね」と不思議がっていたんですけど、八木町に移ってからは、田畑でお米や野菜を育てたり、たくさん鶏や合鴨を飼ったりして自給自足を目指していたから、それほど贅沢しなければ食べていけてたんですよね。
 たとえ貧乏したとしても、自分の意に沿わないアルバイトをしたりするくらいなら学校を辞めた甲斐がない。そんな思いがあったので、仕事の依頼が来たとしても、自分の気に入る仕事じゃなければ大げんかして断っていました。今から考えると、引き受けても良かったかなと思う仕事はありますけどね」
 一度、カレンダーの挿絵の仕事の依頼が入ったことがあった。報酬は6枚で約100万という申し分ない条件だったが、征彦はこんなん描くために大学を辞めたわけじゃないと突っぱねた。
「まぁ、意地を張っていたんでしょう」
 征彦が土を耕しながら仕事をしたいという願望を抱き、八木町に引っ越したのは、征三の生活を目標にしていたからだった。征彦にとって弟の征三は「田舎に住み、畑を耕して、鶏などを飼って生活するのも、結婚したのも、子どもを三人作ったのもずっと先だった。展覧会をしたのも、絵本を出版したのも、エッセイを書き出したのもみんな先輩だった」。
 征彦が「二人とも少年時代を過ごした高知の山村での生活が底にあり、泥くさい画風もどちらからともなく混ざり合うように似てきてしまった」と語っているように、同じ環境で育った一卵性双生児が似ることは必然であろう。1971年に絵本の処女作『しばてん』を出している征三に対し、征彦が『祇園祭』の絵を型絵染で描くことにしたのは、「先を走る征三とはまったく違うものを作らなければならないという、至上命令が最初からあった」からだ。
そもそも、征彦の型絵染に対する苦手意識は身体的なものに加えて、性格的なものに由来するものでもあった。
「この仕事はたとえば糊を作るに当たって配合する原料をきちんと計らないといけないという化学的なプロセスを必要とします。それが出来ないことはないんです。でも、やっているうちにだんだんじゃまくさくなってくるから、気分が全然乗ってこないんですよ」
 ゆえに途中で頓挫し、おざなりにしたままで次の行程にとりかかることも少なくはなかった。完成した作品を水洗いすると塗料が全て落ちてしまい、真っ白になってしまうこともあった。学生時代のみならず、教師として生徒に教えるようになってからもそういうことはあった。
「情けないな~と思いながら、やっぱり向いていないよなと何度も自己確認するような感じでした」
 だが、「ものづくりの感覚だけは(征三と)絶対に違う個性でなきゃならない」との思いは型絵染に対する苦手意識を凌駕したのか。
「結局は、いわゆる工芸的な仕事をやっている今の自分がいるわけです。何でしょうね…。表現し続けていると、それなりに自分のやっていることに満足できるようになってきたんかな…。立派な言葉では、克服したと言えるのかもしれないけれど、慣れてしまったのかもしれないし、諦めただけなのかもしれません」

「芸術家」として
 田島征彦は「絵本作家」として世に知られている人物である。二作目となる『じごくのそうべえ』(1978)は征彦の絵本の中で最も有名な作品であろう。本人にとっても、どうやら『じごくのそうべえ』は特別な作品であるらしい。
「ダミーの段階(いわゆる本の模型。まだ色を入れていない下絵の段階)でこれはスゴいなと思っていましたから。作っているうちにしだいに躁鬱病の気質も出てきて、躁状態の中でおれは大金持ちになれるぞと思い始めたんです」
 そこで、征彦はそれまで付き合いのあった出版社から別件でやって来た若手の編集者にこう告げた。「君はこの絵本を出したら編集者として名が残るよ」。
「そしたら、鼻で笑いよったから腹が立ってね~。大げんかに発展し、最終的には、誰がお前んとこから出すかとこっちから断ってしまったんです。
 とはいえ、絵本の出版社は関西には二つしかないわけです。だから出版社の方でも、一時の感情によるものだろうから謝罪すれば…と思っていたんでしょう。「そろそろ出来上がりましたか」と電話が何度もかかかってきました。それでも「誰が出すか。電話なんかかけてくれるな」と取り合わずにいると、しまいにはかかってこなくなったんです。やっと貧乏から抜け出せる…という矢先の出来事でしたよね」
 そんな一悶着はあったものの、『じごくのそうべえ』は晴れて『祇園祭』を出した童心社からの出版が決定。78年には絵本として売り出された。
「やっとこれで借金も払って大金持ちや…と思ったら、全く売れないんですよ。(笑)
 なんでやろと思って自分なりに売れない原因を探ってみたら、表紙じゃないかなと。タイトルには『じごく』とあり、絵の中では真っ赤な汚いおじさんが飛び跳ねている。そんな表紙の絵本はまず買わないかなと思ったんです」
 事実、童心社の社員がとある幼稚園に売り込みに行った際、園長は「こんな汚らしい、こんな品のない絵本はうちの園には持ち込まんといてくれ」とえらい剣幕で怒ったという。子どもを冒涜するものだというキャンペーンも起こった。
 だが、しだいに買って読み始めた人や読み聞かせをしてくれる人が少しずつ増え始めたり、「パパがこどもと読みたい本」の一つに指定されたりするうちに「じごくのそうべえ」はどんどん波及。発刊から10年ほど経った80年代後半から売上げは年間約1万部を記録。近年でも年間約2万部売れており、のべでは70万部を売り上げるロングセラー作品となったのである。
 処女作を出して以来40年弱の間に征彦が世に送り出してきた絵本は20点を超える。
「売れなくともいい本を作ろうという思いはずっと変わりません。今まで出してきた本は、この本は絶対出さないかん、これこそおれは書かないかんという本ばかりです。でも、これで大金持ちになれるわとものすごい興奮を覚えるほどの本は後にも先にもそれっきりですから。
 ただ、困ったことに、少し誤解されているところがあるんですよ」
 保育園や幼稚園の劇遊びにも使われるなど小さな子供から大人まで年代を問わず幅広く受け入れられてきた『じごくのそうべえ』。
「読者の人は、その作者であるぼくを「子供にすごく受けるようなことを考える人間」だと見る節が今でもあります。例えば、子供(幼児)向けに話をしてくださいという仕事の依頼もたまにあるんです。でも講演で呼ばれた時に、ぼくがしゃべるのは戦争のことや障がい児のことなどの大人向けの話です。
 『じごくのそうべえ』も、僕が面白いからみんなも面白いやろうと思って書いただけ。何せ、作っている最中、主人公のそうべえになりきって想像をふくらませては自分で笑っていましたから。逆に、子供が喜ぶであろうことを題材にしようという考えなどそうべえの時に限らず、一度も持ったことがないんですよね」
 『憤染記』(1995)のあとがきにて征彦は綴っている、「ぼくは町絵師なのだ」と。その証拠に、征彦はこれまで新しい絵本を出した時には、ほとんど毎回その絵本の原画展を開いてきた。目に触れる人の数こそ大きな差はあれど、征彦にとって絵本も展覧会の作品も重みは変わらない。
 遡れば、征彦は74年に読売新聞に掲載された手記「くたばれ!去勢芸術」にて次のように記している。(以下抜粋)
「ぼくの作品のほとんどが大作で、ここに写真で紹介する作品も、幅2m高さ2.5mの大きさがある。作品は従来の小綺麗な染色美術工芸の範ちゅうでは考えられない作品だ。

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