#75 染色作家 / 版画家 / 絵本作家  田島征彦さん


 ぼくの染色は、着物や、帯や、暖簾等とは全く無関係であり、今まで、そんなものを作ろうと思ったことさえない。布に染料を使っての自己表現であるが、ある時は絵画として、また時には工芸として、また版画として陳列される。しかし、それはどうでも良いことだし、どのジャンルで見られようが、ぼくの知ったことではない」
 それゆえにか、征彦は「質の低い、かわいいだけの童画が描かれた童話本」や「体制にしっぽを振る芸術家」を忌み嫌った。大学時代、征彦が染織を嫌悪し専門的な勉強をほとんどしなかった理由の一つは、「染織科の学生の多くの作品が、主任教授のコピーだったから」だ。当時、他の学生が日展や京展に応募するために、審査員の先生たちに下絵から見せに行くことを罪の意識もなく公然と行っているという状況は「田舎者」の芸術世界への甘い幻想を打ち砕き、「染織科や日展を、腐敗と情実の権化と決めつけて嫌悪」させるのと同時に、前衛的な活動への憧れを抱かせた。
 1963年に、征彦が慕っていた先輩の麻田脩二らと共に「反体制 反公募展」を主張した染色集団「染色グループ∞ 無限大」を結成したのもその一環である。「∞」は73年に自然消滅のような形で解散するも、75年から新メンバーで始めた「染織X展」、そして「染織X展」の発展的解散を経て90年に「AUF」が誕生。それぞれの場で、征彦は大型作品を発表しつづけた。
「いわゆる染色の世界っていうのは、美しく綺麗に創らないといけないし、人に好かれるものを創らないといけない工芸の世界。そういうことが全て嫌だったという思いから生まれたはねっかえりだったんでしょうね 」
 征彦にとっては、絵本も自己表現の一つの形にすぎなかったのかもしれない。実際、征彦は「『僕は絵本作家でなくて、芸術家』と、言いたいさみしさをずっと感じていた」と語っている。
 征彦は「上・下巻で構成されている長編小説であるにも関わらず、これまで3、4回は通読している」小説に、山本周五郎の『虚空遍歴』を挙げる。
「小説の主人公・中藤冲也(ちゅうや)は端唄(はうた)で世に知られる人物であり、彼の作った多くの端唄は「冲也ぶし」として万人に愛された。でも、当の本人は下級の労働者もが自分の作った端唄を口ずさんでいることが嫌で嫌で仕方がない。そして、新たな「冲也ぶし」をのせた本格的な浄瑠璃をつくりたいという本意は理解してもらえない。
 ひるがえって、ぼくは絵本作家としては名が売れていても、版画家や染色作家といった「芸術家」としての田島征彦は全然世間に知られていない。そういった状況を嫌悪する気持ちは中藤ほど強くないけれど、重ねてしまうところはありますよね。
 それから、最近はそうでもないんですけど、昔はかなり酒癖が悪く、大事な時に限ってぐでんぐでんに酔っぱらって場を壊してしまうことが何度かあったんです。そんなぼくにとって「酒で失敗する」中藤の姿は身につまされすぎて、彼とまったく同化しながら読むことに自虐的な快感すら覚えていましたから。
 そういう背景もあって80年代後半頃から「芸術とは…」みたいなことにこだわるがゆえに、どんどんどんどん自身を追いつめる方に向かっていってしまったんです。モノを作っている人間なら誰しもが突き当たる壁みたいなものにこだわりの強い性分が相まって、作品が重苦しくなると同時に、創作自体がおもしろくなくなっていきました。「苦悩の果てに志半ばでこの世を去る」中藤と同じような末路を自分もたどるんじゃないかという強迫観念に駆られていた時期もありました」
 そんな中で転機となったのは、約10年前、英子と行ったアフリカのサバンナへの旅だった。
「目の前では、ライオンがシマウマを当たり前のように狩っている。食われるやつも食うやつも、喜びながら生きている。そんな「ほんまの自然」に触れて救われたというか、解き放たれたような感覚はありましたね」

周りに助けられながら…
 古代より、「芸術家」にとって「パトロン」はつきものである。
「未だに恩返しできていませんが、助けてくれる人はポツポツ現れたんです。
 たとえば、教え子の紹介で京都府八木町に引っ越した時も、洋服屋を営んでいた彼女の家族はええ歳した大人が子供を連れてきたのにも関わらず、嫌な顔をせずに良くしてくれました。
 それから、危篤となった高畑正の下へ行くにあたり福島までの電車賃がなくて困っていた時も、近所のおばちゃんがお金を貸してくれました。現在90歳近くになっている彼女は、未だにぼくの展覧会にも足を運んでくれたり、年賀状をくれたりします」
 八木町で暮らしていた時期には、こどものとも社社長・宅間英夫という「心強い援助者」との出逢いもあった。
「ぼくが海外研修に行っている間に、英子は独断で家の購入を決めていたんですけど、当時の年30数万という収入ではローンの審査も通らないわけです。
 でもその時、宅間さんが「いざとなったら僕が買い取ります」と言ってくれたおかげで、20年ローンを組むことができました。彼はぼくのアトリエに残っている絵をかついで、田舎の小金持ち連中相手に嘘八百並べて売り歩いたりしてくれたこともありました」
 宅間は征彦の評価を風の便りで耳にしていたのだろうか。事実、世間的にはいまだ評価されていない征彦を早くから評価していた者は少なくなかった。その一人である、京都市美大染織図案科主任教授・稲垣稔次郎(人間国宝にもなった著名な染色家・1963年没)は入学当初より征彦を高く評価していた。もっとも、征彦がそれを知ったのはごく最近のことだというが。
「1971年に芸術生活画廊賞をとって個展を開いた際、作品と共に「私をささえるもの」という題で「稲垣先生には迷惑をかけた」とのコメントが掲載された雑誌「芸術生活」を未亡人となっていた先生の奥さんに送ったら、「(主人は)『田島は、無茶なことばかりしよるが、今にきっと、良い仕事をして成功する」としょっちゅう話していたし、楽しみにしていた」とわざわざ手紙に書いて寄越してくれたんです。
 迷惑をかけていたのにちゃんと応援してくれていたんやと思うと、柄にもなく涙ぐんでしまって。稲垣先生に限らず、無茶ばかりしてやたらと反抗して迷惑をかけたわりに死ぬ間際に手紙や電話をよこしてくれた先生はたくさんいたんです。
 やっぱり真面目に一生懸命やっていたら、周りがほっとかないんです」
征彦と連れ添った40年を英子はこう振り返る。

「(征彦は)自分しかできへんことは一生懸命するけど、他の人でも出来ることなら他の人に頼んで、その時間を自分の作品づくりに充てようとする人です。
 だから、大学で教えている時なんかは、しょっちゅう生徒が家に来ていました。極めつけは、1975年に受賞した京都府洋画版画新人賞の賞金100万を教え子に取りにいかせたこと。最近でも、「京都府文化功労賞」の記念式典と沖縄県立芸術大学での授業の日程が重なった際には授業を優先したので、式典には代わりに私が出席しました。
 彼には協調性はないし、自分の興味のないことは一切しません。だからもう、無茶苦茶なことばかり。私も我慢ならんとこれまで何度も家出しています。
 でも今こうして、淡路島でいいアトリエを建てているし、贅沢しないのであれば十分暮らしていける。これ以上の幸せもないのかなと思うんです。
 70歳になって同じように歳をとった人たちを見ていると、権力にヘコヘコして生きていてもそこそこの人生なんやなと。ならば、権力に刃向かって遠回りしながらではあっても、好きに生きてそこそこの人生を送れるのであれば、その方が楽しくていいですよね。ストレスもたまらないわけですし。」

新たな人生のステージへ
 征彦が94年に出版したエッセイ『丹波でいごっそう』のタイトルに含まれる「いごっそう」とは、おおむね「頑固者」という意味で用いられる土佐の言葉である。
「自分が正しいと思いこんだら、何が何でも突き進んでいって、どうにも止まらない。そんな自閉症的なこだわりは小さい頃から30代、40代まで、いや50代の頃にもまだあったかもしれません」
 たとえば、30代の頃。新聞の挿絵として作った白黒の絵が「ビシッときれいに写るように印刷してくれ」と記者に頼んだものの、出来上がってきた記事の画質が粗い(網点が見える)ことが征彦にはいたく気に障った。
「一生懸命やってくれてた記者やったんですけど、激しく突っかかり、怒りまくっていました。今になってみれば病的やったなと思うほど、かつてのぼくはこだわっていましたね」
 自給自足の生活を志し、丹波の山奥に移住して以来30年ほどの間一切野菜を買わなかったのも、こだわりの一つのあらわれだった。
「そんなふうに「こだわってしまう自分」から、最近やっと脱却したんですよ(笑)」
 2011年に京都府で開催される第26回国民文化祭の一環として「民話の祭典」が丹後半島の伊根町で行われるので、町立本庄小学校の子供たち(全校生徒35人)と一緒に絵本を作ってほしい。そう京都府から依頼された征彦は、同じ年に「京都府文化功労賞」を授与されたことへの“恩返し”の意味もこめてOKの返事をした。
 絵本の制作過程で、征彦は制作拠点となる小学校に通うため20回ほど淡路島から伊根町への片道約5時間の距離を往復。完成した絵本『とこよのくにのうらしまさん』は、翌年くもん出版より刊行されている。
「自分でもよう我慢してやったなと思います。若い頃はもちろんのこと、50代でも断っていた類の仕事。でも、さすがにぼくも70歳。これまでずっと人に迷惑をかけてきたこともあるし、何でもやらんといかんなと思って引き受けたんです」
英子も口をそろえてこう言う。
「伊根小学校の仕事を引き受けたこと自体も驚いたけれど、よう学校の先生とけんかせずに終わったなと。征彦はこれまで一貫して権力にはおもねらずというスタンスがあり、権力を笠に着ているなと感じる態度や言動に触れると毎度のように突っかかっていっていましたから。どうやら「組織」とかにアレルギーがあるみたいで、特に公務員とはよう喧嘩してはりましたよ。もちろん、公務員の中にもええ人もいっぱいいはるんですけどね」
「ぼくには「負」の経験がわりと多いからでもあるのでしょう。やっぱり、弱い方に味方したいところがあるんですよね。
 生まれたときから征三の方が強くてずっとやられっぱなし。踏みつけられるような感覚を何度も味わってきました。勉強ができないくせに入った進学校の土佐中、土佐高でも相当苦労しました。創作活動においても、確かに調子がよくなってグンと伸びた時期はあったけれども、それほど長続きはすることなく、また落ちてスランプに陥るということを繰り返していました。障がいを持った人物を絵本の主人公として取り上げたり、講演で障がいについて話したりするのも、そういう過去とは切り離せないと思うんです」
 英子は言う。
「その分、遠回りしましたよ。うまくいったと思ってもパーになったり、朝日新聞の日曜版で隔週色刷をやっていたのに、喧嘩をして半年もたずに降ろされたり。そういう意味では、歳をとったらええこともあるのかもしれませんね。(笑)」
「伊根小学校の例にとどまらず、70歳になったあたりからは、これまでの自分では考えられなかったほどこだわりがなくなりました。創作活動にもゆったりと取り組めています。野菜に関しても、英子に「足りない分は買わないか」と言うようになりました。サバンナでの転機に加えて年の功もあるんでしょうね。今、追いつめられていたり行き詰まったりしていた時期を振り返ってみても、それほど大したことでもなかったなとは思えるんです。
 なので今は、今までこだわるがゆえにやっていなかったこと、新しいことに勇気をもって取り組んでみようという気持ちは湧いてきていますね。それに、何をやるのも楽しみ。畑仕事や本業の仕事に追われていることは確かなんですけど、余裕をもって構えていられます。人間関係においても、かつてのように些細なことで怒りをぶちまけるようなこともなくなったので、うまくやれるようになりました。
 さらには、創作の世界における「信頼」みたいなものも出来てきたんです。
 ぼくは「絵本」「版画」「染色」の3つの世界で生きているわけですが、70歳を越えると序列的には一番上になります。どの世界でも一生懸命やってきたことの証なんでしょうけど、わりと周囲から信頼されているんですよね」
 その一つのあらわれとなったのが、今年6月末から約1ヶ月間、京都の染色専門美術館「染、清流館」において開催された個展「祇園祭展」だ。 

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