#77 石島気療塾 代表 石島直樹さん

石島気療塾 石島直樹さん#77   石島気療塾 代表 石島直樹さん

「心の平穏が、ここしばらくの自身のテーマなんです」

Profile
1970年生。山形県出身、在住。プロのミュージシャンを目指し20歳の時に上京、24歳で渡米。27歳でうつを患い、30歳の時に帰郷。大工をする父のもとで仕事を手伝いながら自分の道を模索。33歳より気療師を目指し、東京にある神沢瑞至(ただし)の気療塾学院に通い始める。並行して東洋医学研究学院@山形市にも通学。中国式推拿師(すいなし)として山形県内の温泉施設のリラクゼーションコーナーで経験を積み、2005年「石島気療塾」を開く。何らかの疾患を抱えた体を正常な状態へと回復させるため、「気」を活用した施術をおこなっている。  ※ 文中敬称略

記事公開:2014-11-28

夢破れて
「ほんとは音楽の道でプロになりたかったんです」
 遡ること30年以上前。小学生の頃の石島は、当時の歌番組「ザ・ベストテン」を毎週楽しみに観るような「ふつうの子供」だった。マイケルジャクソン、CCB、チェッカーズ…。ジャンルを問わず、音楽は何でも好きだった。
「ロックに惹かれ、ギターに魅せられるようになったのは中学1年の頃。ロックの中でもギターのひずんだ音は格別で、音楽を聴くときはギターの音にだけ耳を澄ますようになりました。そのうちいつしか、ギターの音しか耳に入ってこなくなったんです」
 両親からギターを買ってもらったのは中学2年の時のことだ。野球部で部活動をする傍ら、空いた時間は極力練習に費やした。高校ではバンド活動をするのが夢だった。
 だが、高校では「なぜか」レスリング部に入部。音楽活動はいったんおあずけとなり、華々しくエンジョイしたいという願望は叶えられぬまま持ち越しとなった。
 「プロのミュージシャンになりたかった」石島は、卒業後の進路として東京のギター専門学校などの音楽系の学校への進学を希望。だが、両親は「バカなこと言ってるんじゃない。やるなら家出するなりして勝手にやれ。一切援助はしない」とけんもほろろの対応だった。
 その両親は、息子のために就職先を用意していた。いったんは拒んだ石島だったが、「3日だけは行く」という約束で条件を飲む。東京につてもなければ、社会に出たこともない。18歳の石島の胸中では、家を出たところで食っていけるのかどうかという不安が先立った。父から「入社祝いでアンプ(30万ほどの音楽機器)を買ってやるから、好きな音楽は趣味でがんばれ」との”交換条件”を提示されたことも、「就職」へと気持ちを傾かせた。
「私は覚えていないんですけど、最初の1週間ほどは、帰宅したら毎日のように「明日から行かない」と言っていたようです。
 それでも、社会人としてがんばっていこうという意気込みを胸に、会社の仕事に適応しようと努めていました。とともに、会社員という道への舵切りは進み、夢は諦めたつもりになっていました。とはいえ、音楽の道でプロになりたいとの思いが時おりフツフツと沸き上がってくるわけです」
 そんな気持ちの揺れを片隅に追いやりながらも、石島約1年半休まず出勤した。
 だが、最後には思いを抑えきれずに辞職。両親からは勘当を言い渡された。
「当時(88年)は終身雇用の時代。ましてや保守的な風土の山形においては、「会社を辞める=社会のレールからの逸脱」であり、市内中にその噂が触れまわるくらいのことだったんです」
 20歳で上京して以降、石島は毎日時間の許す限り練習に励んだ。2年後には、遅れて上京してきた弟とバンド活動を始めた。その勢いで24歳の時に渡米。一度帰国するものの、26歳の時再び渡米すると、弟と現地のメンバーとで4~5人組のバンドを結成した。以後、何度かメンバーの組み替えを行ったが、のちにコンテストに出場するきっかけを生んだボーカルと組んだことで、急激にスケジュールはタイトになっていった。
「気づかないうちに具合が悪くなっていったんでしょう。対人恐怖症になったんです」
 その翌年。石島たちは米国在住の日本人向けに開催されたプロへの登竜門となるコンテストに出場。全米から約270組のバンドが集まったが、契約していたイギリス人音楽プロデューサーのバックアップもあり、400人の観客の前でライブを行う最終審査への切符を手にできる10組まで勝ち残った。
「その時は気力だけで持っていたような状態でした。ライブ終了後、観客のアメリカ人女性が「よかったね」と言ってくれたのに対し、「軽々しく言わないでくれ。自分はこれだけ頑張ってきたのに、そんな簡単にわかってもらってたまるか」との思いが湧いてきました。若気の至りなのか、心身の不調で周りが見えなくなっていたからなのか…。いずれにしても、常軌を逸していたなと思うんです」
 対人恐怖症はやがてうつへと進行。
「ちょっとしたノイローゼになり、ギターを弾けないどころか、何に対してもまったくやる気が起きなくなったんです。
 音楽活動に先が見えないとなると、夢を諦めるという選択をとるしかない。でも、プロになると言って10年以上も頑張ってきたのに辞めるなんてプライドが許さない…。そんな葛藤を抱えながらしばらくの間活動を続けているうち、好きでやっているのか、自身のプライドを保つためにやっているのかわからなくなってしまったんです。
 そんな私の中に、以前飯星景子さんが語っていた「統一教会を脱会する際、最後に残った薄皮一枚のプライドが引っかかってなかなか抜け出せなかった」という言葉がストンと落ちてきました。まさしく当時の私は「薄皮一枚のプライド」で音楽とかろうじてつながっているような状態だったんです」
 曖昧な心とは裏腹に体は正直だった。
「いい音楽を聞くと、今の自分と開きがありすぎると気づかされてさらに落ち込むだけ。いつしか、もはや音楽なんて一切聞きたくない、どんな音楽を耳にしても頭が痛くなってくるという状態になっていました」
 心身ともに絶不調のままやむをえず帰国した石島は、実家へと戻った。
「でも、うつになってるなんて両親には言えないですよね」
 当面は個人で大工をしている父のもとで仕事を手伝いながら、うつの治療を試みることにした。病院の精神科に通ったり、精神面を強化すべく空手をやってみたり。2年ほど気功教室に通っていた時期もある。
 だが、何をやってもうまくいかなかった。仕事はぎりぎり続けていられる状態だったが、疲労困憊。一日3食、毎日の食事は母親の手料理を摂っていたものの、一向に改善の気配は見られぬまま時間だけが過ぎていった。
「大工の仕事が合えばやろうかと思っていたんですけど、案の定自分には合わない。上がっていく希望は見えないどころか、ひょっとすると下がっていくのかもしれない。30歳を過ぎてこの状態が続いていくのかと思うと不安を感じずにはいられなかったんです」
 音楽の道に戻ろうと考えたことも何度かあった。
「音楽への未練は断ち切れていませんでした。音楽から逃げたという後ろめたさもなかなか払拭できずにいました」
 そんな折、石島は「気」と出逢う。たまたま観ていた「気の力で動物を眠らせる」実験をするテレビ番組に気の使い手として出ていたのが、のちに師となる神沢瑞至だった。
「本屋で見つけた先生の著書を読んでみると、わかりやすく丁寧な言葉で書かれているからすんなり頭に入ってくる。おまけに、世界レベルですごいと言われる力を持っているにも関わらず、内容はへりくだっている。人柄はすばらしいし間違いない。「見つかった!」と直観したんです。事実、その出逢いをきっかけに、私の人生は大きく変わっていきましたから」
 その後、石島は神沢が東京で主宰している学校「気療塾学院」に入学。そこで学ぶようになるとと心と体の具合は徐々に快方へと向かい始めたのである。

覚醒した力
 入学後、石島は大工仕事のかたわら、週に1度東京に通い、丸二日みっちり授業を受けるようになった。
「当初、自分も先生のような力を手に入れたい、先生から直接治療を受けたいという二つの望みがありました。でも、先生は重症の患者さんばかり扱っているから自分の入り込む隙はない。だから、おのずと自分がその力を身につけることに意識の焦点は絞られていきました」
 神沢から教わった「体内の気の巡りをよくし、自己治癒力を高めるため」のトレーニングを毎日実践。
「ただ、始めて2、3ヶ月くらいは自身の変化がまったくわかりませんでした。それが、ある日突然、変化を感じたんです。とはいえ、まだ半信半疑。トレーニングが功を奏したのかどうかわからないのです」
 そういう状態が3ヶ月ほど続いた頃、つまり入校してから約半年後、石島の体に異変が起こった。
 発端はぎっくり腰だった。仕事は続けていたが、痛みは1週間ほどかけて徐々に増していくばかり。最終的にはまともに直立歩行できない状態にまで悪化したため、休養をとった。その後1週間ほどで痛みはひき、体は元通りに戻ったかに思えた。
 仕事に復帰して間もなく、今度は首が痛くなってきた。同じように痛みはしだいに増殖。1週間ほど経つと、むち打ち状態となった。ピーク時は頭に手を添えないと起き上がれないほど。だがそれも、10日ほど休養をとると症状は消えた。
 その時、石島は神沢から教わったある言葉を思い出していた。
「気のトレーニングをやっていると、体が作り変えられていく。その変わり目に(今まで持っていた病気が出てくる)チェンジアップ現象が起こる可能性がある」
 思い当たる節はあった。20代の頃から石島にはぎっくり腰とむち打ちという持病があったのである。それぞれのべ10回ずつほど、ひどい時には年に2度のペースで罹患。歯磨きをしている際、突然むち打ちに襲われたこともある。何度か病院に行きレントゲンを撮るも、診断結果は毎回「異常なし」。両者ともに原因不明で手をこまねいていた。
 むち打ちが治った後、石島は突然40度以上の熱を出し入院しているが、同じく手がかりは記憶の中にあった。18歳の時にもほぼ同じ形で40度以上の熱を出し2週間ほど入院していたのである。
「続けて3回来たので、これが先生の言っていたチェンジアップ現象かと合点がいったんです」
 ただ、今回の発熱は長引いた。退院こそすれ、微熱がひくのに約1ヶ月半、その後も体調が思わしくない状態が続くこと約4ヶ月半。のべ半年かかり、ようやく症状は軽くなった。
「以来10年。むち打ちとぎっくり腰とは無縁の生活を送っています。先生の言うように、トレーニング効果で体が作り替えられたのです。ただ、その後も相変わらず風邪はひくし、40度以上の熱が出たのも2回ほど。最初は超人になれるのではと期待していたんですけど、それはどうやら違うみたいで(笑)。要は、普通の体に戻ったということなんでしょう」
 気療塾学院と並行して、石島は山形市にある東洋医学研究学院に通うようになった。民間が運営する当学院は、ツボ療法の資格を取得できるいわゆる専門学校である。
 通い始めて半年。図らずも山形市内の温泉施設に中国式推拿師として就職する運びとなった。
 そこで働くようになって半年後。石島の中である変化が起こっていた。

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