#78 Cafe Espresso 店主 高橋 昌平さん

78 高橋昌平さん#78  Cafe Espresso 店主 高橋 昌平さん

「極端に言うと、旅が自身のすべてなんです」

Profile
1943年生。山形県出身、在住。70年、継ぎかけていた家業を放り出すように家を出て、大阪万博へ。ポルトガル館にて半年間働いたのち、中南米やヨーロッパを中心に世界をめぐる旅をすること約4年半。帰国後、茅葺き屋根の一軒家での生活を経て、84年、国鉄の貨車を店舗として活用したCafe Espressoを山形市内にオープン。以来、30年間営業を続けている。 ※ 文中敬称略

記事公開:2014-12-1

 
 
「対極」を求めて
「熱が冷めないうちに船に乗ってしまおう」
 そんな思いを胸に、高橋が片道切符を片手に海外へと旅立ったのは、今から40年以上前。70年12月のことである。
 最初の目的地はアメリカ。ドルが一番強い時代、旅資金を作るにはもっとも手っ取り早い場所だと踏んだからだ。
 その後、約4年半。いわゆる「バックパッカー」として、高橋はヨーロッパや中南米を中心に世界を周った。金が尽きると働いて金を貯め、それを元手にまた旅に出る。そんな繰り返しだった。
「訪れた国の中で好きになったのは、ペルーやボリビアなどの南米の国。一言でいえば、何にもないというか、すごくシンプルでプリミティブなところがよかったんです。たとえば、当時ほぼ100%蛍光灯を使っていた日本とは違い、ほとんどの家庭で、裸電球あるいは蝋燭を使っていたところ。スイッチ一つで済む日本とは対照的に一苦労を要するわけだけど、そのプロセスが楽しくって。さらに、光の色のあたたかさも昔の日本を思い起こさせるとともに、懐かしさを感じされてくれましたから。実際、自分が小さかった頃の記憶をたぐってみると、それに近い生活をしていたように思えたんです」
 1943年生まれの高橋が幼い頃は、まだ日本が貧しかった時代である。
 高橋の記憶では、電話がある家、テレビがある家はそれぞれ町内に1軒ずつあるくらい。電気屋を営んでいた高橋家にはテレビがあったため、プロレスや相撲が放送されるとなると人が一斉に家に集まってきた。人が大勢集まりすぎたことが原因で自宅の床が抜けたこともある。
 それから約20年。高橋が旅に出たのは、50年代半ばから始まった高度経済成長期が終盤に差し掛かった70年のこと。64年に開催された東京オリンピックの後、5年ほど「いざなぎ景気」と呼ばれる好景気が続いたこともあり、当時26歳の高橋の目に映る日本は、「何でもそろっている」と感じるほど豊かな国になっていた。
「もし、旅で訪れた国が日本と同じだと感じたら、さほど魅力を感じなかったのかもしれません。ヨーロッパも違う魅力はあるけど、ある程度完成された文明や文化がある。かたや、南米はそれらが未発達。そこがよかったんです」
 実際、高橋にとってサンパウロ(ブラジル)やブエノスアイレス(アルゼンチン)、リマ(ペルー)などは旅の経由地として通過する場所にすぎず、長く滞在することはほとんどなかった。
「そういった大きな町は、その土地独特のものより世界の大都会に共通するものが多いから、私にとってはつまらなくって。
 でも、「南米が好き」とは旅人だから言えることなのかもしれません。実際、そこに住み続けるわけじゃないし、住もうと考えたこともないですから」
 帰国後、高橋は西蔵王にある築約100年の茅葺き屋根の一軒家を借りて暮らし始めた。何度目かの冬には、積雪により家屋が崩壊。また新たな茅葺き屋根の家を借りている。
「「茅葺き屋根」には少し憧れがあったのかもしれません。何となく、旅先で体験したプリミティブな感じを連想させるようなキーワードでしたから。そういう家に住めば、旅をしている時と変わらぬ生活スタイルを保てるような気がしていたんでしょうね」
 高橋が西蔵王で過ごしたのは、84年にEspressoを開くまでの約10年。その間の主な収入源は、毎年冬場、蔵王スキー場でインストラクターをして稼ぐ約10万/シーズン。2年ほど、父が経営するゴルフ練習場でアルバイトをしたこともある。
「それ以外、収入はほとんどなかったはず。どうやって暮らしてたんでしょう…。不思議ですね。
 当時のことはあんまり思い出せないけれど、親から金をもらっていたわけでもないから、何とかなっていたんでしょうね…。
 何にしても、それまでの旅の続きのような生活をしてたんじゃないかな。だから出費はかなり抑えられていた気がするし、ゴルフ練習場で2年働いてできた蓄えで相当な期間、生活費を賄えたと思う。
 やっぱり、旅を通して価値観、そして生活スタイルががらっと変わりましたよね」
 旅に出る前の高橋を知る知人から、その変わりように驚かれたこともある。
「自覚もあったんですけど、わりと贅沢をしていたというイメージがあったようです。思えば、それが旅に出た根本的な理由だったのかもしれません――」
 高橋は山形市生まれ。電気屋を営む両親のもとで、男3兄弟の長男として育った。
 地元の高校を出てからは、東京の大学(経済学部)へ進学。大学卒業後は、新卒で「腰かけのつもり」で東京の会社に就職。約2年間のサラリーマン生活を経て、実家へと戻ってきた。
「商売をしている家の長男だったので、「後を継ぐのが当たり前」という暗黙のルールみたいなものを感じていました。だから、いずれは山形に戻って後を継ぐんだろうと何となく思っていたし、実際継ぎかけたんです」
 実家で働くようになってから約1年が経った70年3月。26歳の高橋は所持していた軽自動車に当座の生活用品を詰め込み、家を出た。目的地は、半年間開催される大阪万博だった。
「商売が何かしっくりこないというのかな…。あんまり好きじゃなかったのかもしれない。それから、商品の展示レイアウトなどについての自身の意見がほとんど採用されなかったこともあったかもしれません。仮に、そのまま続けて経営者になっていたら、つぶしていたんじゃないでしょうか」
 理由は他にもあった。
「大学時代、学費は出してもらっていたし、バイトもほとんどしなかった。会社にも、自分には帰る場所があるという前提で腰かけ就職をした。そんなふうに〈何不自由なく、ぬくぬくと生きられる状況に甘んじている自分〉を何とか変えたい。でも、それは、親や友人のそばにいると実現できない。だから、現状の対極となる〈何にも頼るモノもなければ、人もいないような不自由な状況〉に身を置こう……。そんな思いを溜め込んでいた私にとって、大阪万博は偶然見つかったいいきっかけでした。
 今思えばすごく無責任だけど、店は2人の弟に任せばいいだろうと、自身の思惑を伝えぬまま、放り出すような感じで出て行きましたから。
 もしかしたら、周囲からは「突発的に家出した」ように見えたかもしれないけれど、私にとってはそうじゃない。気づかないうちに少しずつたまっていたのであろう現状への不満が、ある時一気に限界を超えたんでしょうね」
 万博に仕事のアテはなかった。のちに半年間働くことになるポルトガル館は、現地で運良く見つかった仕事場だった。
「やっぱり、大阪や海外にポンと飛び出すために要するエネルギーを考えると、バネみたいなものも利用する必要があったんです。自身の内部で消化させて状況を変えていけるような強さはなかったですしね。
 当時は、1ドル=360円の時代。外国は今ほど身近な存在ではなかったので、外国人をいわゆる「外国人」と見てしまう風潮がありました。その中で、自身も例に漏れず、そういう見方をしていました。
 でも、周りには外国人が多く、半分外国に出ているような感覚を抱いた万博での半年間で、その傾向はいくぶん弱まりました。だから、私にとっては、いわば大阪行きが「ホップ」で、万博で過ごした半年間が「ステップ」。そして海外行きが「ジャンプ」なんです。
 実際、旅先となる海外には誰も知り合いがいないし、お金だってない。そこで冷静になってしまえば、躊躇してしまったかもしれないわけで。
 そういう意味では、偶然にしても、うまくバネを作れたし、使えたと思います。当時はまだ独身だったし、親も若くて面倒を見る必要もない。将来のビジョンもなければ、モノも仕事もない。ためらいを生む現実は何もなかったおかげで、行きやすかったんです」

喫茶店 ≠ 商売
「旅に区切りをつけたことに特別な理由はないんですよ」
 75年夏、旅の間、一度も日本に帰らなかった高橋は4年半ぶりに日本の空気を吸った。とはいえ、やりたい仕事もなければ、将来の目処も立っていない。手持ちの金は尽きかけていたが、一切職探しはしなかった。
「長い旅を経験しちゃうと、背広を着てネクタイを締めて…という生活には戻れなくなったんです。どこの会社だって雇ってくれないだろうし、こちらとしても組織には入りたくないわけ。だから、――同じように旅をしてきた人もみんなそうだと思うけれど――どうしても自営みたいな方に向かってしまった。それしか道はない、というかそれしかやりたくなくなるんですよね」
 約10年のブランクを経て、高橋が出した答えは「カフェ」だった。
「人との出逢いやつながりを作れるもの。背広を着る必要がなく、どこにも属さずわりとフリーなスタイルでやれるもの。そういった条件で自分がやれそうな仕事を絞っていく中で思い浮かんだのです」
 実家にいる際、商売が肌に合わないと感じていた高橋だが、カフェの経営も「商売」の範疇に入る仕事である。
「一言で言うと「商売」になってしまうんでしょうけど、私にとっては商売のうちに入らないんですよね。
 「何らかの仕事をして食っていかなくちゃならない」という前提は崩せなくとも、同じ仕事をやるなら、楽でストレスがたまらないものの方がいいなと。だったら、うちのカラーを出して、それに合ったお客さんに来てもらうという形を作れればいいなと思ったわけです」
 Espressoを開くに際し、高橋には参考にしたモデルなどが全くないうえ、カフェ巡りも一切やっていない。
「他の店のやり方を見ない方がいいと思ってましたから。見ても惑わされないとは思っていたけれど、万が一惑わされてしまったら困るなと。
 それでも、こちらからは訊かずとも、「お金を借りて銀行に返す計画を立てた上で、銀行から借りた方がいい。そうすれば、返さなきゃいけないという義務が生まれるから、仕事も一生懸命やらなくちゃいけないとなる」というような助言をする人はたくさんいた気がします。「店の近辺の人口などの立地条件を調べて、どのくらいの来客が見込めるか検討しなければならない」と言う人もいました。極端な例では、「喫茶学校に入って、ちゃんと習わなきゃダメ」と言う人もいたんです。
 でも、そういった他人の言葉はまったく無視。自分のカラーや好みを出せば、お客さんは遠いところからでもここに来てくれるだろうとの思いは揺れませんでしたから」
 そのカラーのひとつとして、高橋は「コーヒーはそんなに前面に出さなくてもいい」と考えていた。実際、コーヒーの淹れ方や出し方を誰かに教わるどころか、独学で学んだこともない。
「だから、開業以来30年、出しているコーヒーはずっと一種類(エスプレッソ)だけ。コーヒー以外に扱うメニューも(カプチーノやチャイなど5種類程度)少ないんです。コーヒー豆の産地別にメニューを構成していたいわゆる「純喫茶」とは対照的だったと思います」

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