#79 写真家 飯坂 大さん


「非日常」から「日常」へ
 歳を重ねるとともに、飯坂にとって「旅」の持つ意味合いも変わってきた。
「若い頃は――YouTubeとかのネット環境が今ほど発達していなかった時代背景もあり――、見たことがない風景や地図上の空白みたいな場所に惹かれていました。自分が知らないこと、興味あることを見に、興味ある場所に行くという感じでした。たとえば、昔から変わらない暮らしを見にバングラデシュに行くみたいな。今振り返れば、自分を形成するために「旅」という行為をしたかったんでしょう。
 たしかに今も行ってみたいところはたくさんあります。世界一周したいという思いもあります。実際に、短期間の旅にも出ていますし、山に関しては少しずつ目標設定値は上がっていて、今年もヒマラヤなどの5000m級の山に行ってきました。ただ、「旅」がしたいわけじゃない。たとえば撮影のために仕事として行って、持ち帰った写真が誰かの役に立つというように着地点がはっきりしたものになっています」
 2012年、スタジオを辞めた頃にも飯坂の頭には「もう一度、世界一周のような長旅をしよう」という考えが浮かんでいた。
「でも、結局、昔と今のテンションのギャップもあるし、世界も発展していてどこに行ってもあんまり変わらなくなっている。ヒマラヤの山奥に暮らす人でも携帯電話を持っていたりするわけで、かといって昔ながらのというか自然でいい顔をしている人たちがいるような場所をがんばって探し求めるのも違うかなと…。そこで気づいたわけです、旅をしたいわけじゃないんだって。
 今は人生が旅のようになっているので、たとえどこかに行っていなくても、毎日が旅だと思って日々を過ごせています。旅をやりきったという実感もあります。旅はあくまでもきっかけ。だから、たとえばインドに旅をしたから変わると思われるのがすごくイヤなんですよ。行動を伴う形での旅をしなくとも、旅をするように生きている人もたくさんいるわけで。
 シンプルに「友達や家族が一番大事だな」と思うようになっているというのもありますね。旅をしてきた結果、(今の段階では)家族や友人と一緒にご飯を食べる時間が一番平和であることに気づきました。今は日本が好き。だから基本的には自分の国にいたいんです。
 それ故に、日本を離れる時に生じる「旅に出るワクワク感」は昔と変わらないんですけど、同時に「早く帰りたい、友達や家族に早く会いたい」という気持ちも芽生えるんです。それはここ数年のこと。20代の頃には全くなかったことです。
 あとは、震災も一つの大きなきっかけだったかな。写真家としてというより、生き方として今見るべき、関わるべき場所は東北である日本だなと」
 震災直後からは、福島に通い震災後の風景を撮るようになった。ちなみに、最近は震災がらみでつながった東北の人から仕事を依頼されることもあるという。
 そういった思考の変化は、生き方にも変化を及ぼした。
「人のこと云々じゃなくて、まず自分が生きること自体大変だし、そこに素直になっていいのかなと。
 片親だったという家庭環境に由来するのかもしれないんですけど、昔は誰かのために生きていたというか、自分以上の荷物を背負わざるを得なかったというか…。勉強や受験は嫌いだった自分にとって、正直、大学も親のために行ったようなもの。今となっては、勉強していてよかったなとは思いますけどね。
 当時は一生懸命でいたいというか、がんばらなきゃいけないという意識が強かったですから。実際、目の前に大変なことがたくさんあって、そこから逃げられなかったし、逃げる勇気もない。で、それは家族のことを愛していたからこそ。自分で言うのも変ですけど、僕はやさしい人に育ててもらったし、失くした家族もみんなやさしかったと思っています。とにかく目の前のことを一生懸命こなすしかなかった10代の頃は一番つらい時期だった。
 当時、学校に仲のいい友人はいました。でも、自分の悩みとか背負っているものをわかってくれるだけの経験値があるような友人が周りにいるわけはなかったんです。言えなかったし、おそらく言ってもわかんなかった。学校の先生も、一人として僕の発しているサインを受け取ってくれる人はいませんでした。決して周りを責めているわけじゃなくて、それだけ僕は重いテーマを背負っていたというか、孤立した人生を歩んでいたんです。
 今までを振り返って、ほんとに何人分生きてんのかって思われるくらい濃い人生を生きてきたと思っています」
 飯坂が自身の将来に「ようやく向き合えた」のは、大学に入ってからだった。
「僕の周りには自分の家業を継ぐと決まっている友人や、就きたい仕事が決まっている友人がいました。かたや、何をしていいのかわからない僕には、彼らのようにやるべきことが決まっていることが羨ましかったんです。
 当時に比べると、今は「がんばらなくなった」かな。わりと適当にというか、ゆるくなりましたね。昔はどうしてもスイッチオンの状態が続いたけど、今はオンオフがきっちりできてる。とはいえ、やっぱりとことんやっちゃうんですけどね」
 飯坂にとっての「昔」とは、祖母の死を経て旅に出る22歳の頃までを指す。
「その頃を境に「~しなくちゃいけない」から「~したい」、つまりmustからwantにまるっきり変えたんです。自分がしたいことのために生きようというか、誰かからやらされてるという意識を持つのを辞めようと。それゆえ今は、自分の好きな人たちと好きな時間を共有することに素直になれています。同時に、やだなと思う時には行かないし、断ることもすんなりできるようになりました。
 だから、今の方が無邪気というか、楽しめていますね。背負っちゃってるがゆえに子供っぽい子供ではなかった子供時代から完全に逆走している感じです。それも同じく22歳頃が分岐点。小さい頃に出来なかった分を取り返すかのように全力で遊ぶようになりましたから。
 ゆえに、30歳の誕生日を迎えた時は感無量でした。20代をやりきったというか一生懸命生きてきたなと」

「仕事」と「ライフワーク」と
「今、ライフワークとして撮っている写真も少しずつ仕事として撮れるようになっています。その両者の境界線を失くしていくことは大事なことだと思っています。
 というか、写真家だとか、仕事だとか、仕事じゃないとかってあんまり関係ない。たとえお金が発生しなくとも誰かが喜んでくれるんだったら、仕事として成り立つと思うんです」
 飯坂の名刺には、肩書きが記載されていない。
「仕事と割り切って写真を撮るようなことをしたくなければ、テーマのために写真を撮るようなこともしたくない。そこには一貫性があるのかもしれないし、ただそうできないだけなのかもしれない。
 賞をとったり、誰かに師事したりする写真家の人たちのことはリスペクトしていますが、どんな賞を取ったとか誰に師事していたとかで写真の見方が変わるような世界はどこかで疑っています。僕は、自分の足で歩いた距離で温度や風景が伝わるような写真を撮っていきたいんです。僕の場合、旅を通して得た人とのつながりがすでに僕の財産というか生き様になっているわけで、それを伝えていく作業をすればいいのかなと」
 飯坂はライフワークとして写真を撮る際、主にフィルムカメラを使用している。
「色味とか奥行き感とか、単純にフィルムで現像した写真の方が好きだというのもありますけど、結局は信じてるってことなんでしょう。撮る際にも気持ちがこもるし、ボタン一つでデータが消えちゃうデジタルとは違って、ネガに刻まれているフィルムでは残したいという“想い”も刻まれる気がする。行為としても手間がかかっているがゆえにいいなと思えるところもありますしね。
 でも、ただ熱意に突き動かされているだけじゃなくてきちんと準備を整えてきているというか、人を魅了したり仕事として役立てていけるだけのバックグラウンドは持てたと思っています」
 裏付けとなっているのは、2008年から4年間、写真スタジオで会社員として働いたという経験だ。主な仕事はスタジオマン、いわばプロカメラマンのアシスタントである。
「完全に自分の時間を譲った形でした。はっきり言って、その間は写真も撮れてないし、何もできていません。働く前からわかっていたことではありましたが、こんなに忙しいことがあるのかっていうくらいの忙しさを経験しました。
 イイノ・メディアプロといえば日本で一番有名なスタジオで、現場は華やか。いわば、写真界の第一線。でも僕らはあくまでもそれをサポートする側。だから、悔しかったですよ。
 さらに、商業主義を重んじる場所だったので、自分がやりたいこととのギャップもありました。でも、それもわかっていたこと。そこで培った広報戦略や技術を将来につなげていけばいい。被写体が違う、クライアントが違う…と不満を抱くんじゃなくて、自分次第だと前向きに捉えてやっていました。そういう意味ではすごく柔軟になれている自分がいたんです。「我慢してやる」みたいな感じではなく、一つの通過点と信じてやれた4年間は、大変だったけれど楽しい時間でした」
 イイノで4年間働いたことには理由があった。
「大概のスタジオマンがそこで働く期間は2年前後。でも規模が大きいイイノで上の方に行くには、1年半とか2年くらいの期間を要するわけです。退社後、誰かに師事したりするのであればそれでもいいのかもしれません。でも、年齢的なところもあるし、尊敬できる写真家があんまりいない…。いや、プロの写真家の中ですごい人たちはいっぱいいました。でも、自分はそういう人たちを超えなきゃ意味がない。だから、「アシスタント」ではあっても「カメラマン」として仕事に取り組んでいましたし、「4年」という期間は自分がやるしかないという気迫の表れでもあったんです」

描いている理想
 旅を始めたのとちょうど同じ頃、飯坂は「なりたい自分に近づく過程で、その都度自身の状態を確かめる」ため、やりたいことをひたすらノートに書き留めるという作業を始めた。
「振り返れば、ほんとに色んな人たちの言葉に支えられてきた人生だったなと。その言葉を何度も反芻してきたおかげで、気づいたら自分の言葉になっている感じです。というか、どこからどこまでが自分の言葉かわからなくなっています」
 他人の目には、飯坂大という人間は「自信家」に映るらしい。「すっげーぎらぎらしていた(20代前半の頃の)あなたを忘れない」と言われることもあるという。
「自分では、自信があるとかって思ってないんです。もっとスゴい人たちがたくさんいることを知っていますし、常にまだまだこんなんでいいのか、こんなもんじゃないと思ってる。ただ、そんな自分を素直に相手に伝えられる自分ではあります。それがもしかしたら、自信があるように見えている所以なのかもしれませんね。
 実際、今はまだ駆け出しのフォトグラファー。ここ数年でようやく何者かになれたところだし、まだ何もできていません。理想は大きいので。(笑)ただ、少しずつですが自分が撮りたい写真を仕事として撮れるようになってきているし、「できる準備ができて、少しずつでき始めている」という実感はすごくあります。ワクワクしてやまない状態です。
 そういった僕のパワーというのは、みんなから風を吹かされて生まれたもの。諦めたくないのはもちろんだけど、みんなから守ってもらってて、応援されているから諦められない。
 仕事も好きだし、生きることも好き。カメラマンとして食べていけるようになったら、自分の表現をしなくなる(写真を撮らなくなる)人はたくさんいます。でも僕はカメラマンになりたいわけじゃない。今まで自分がやってきたことを仕事にするんだという熱をどこまで保っていられるかが、これからの自分に問われている課題だと思っています。実際、22,3歳の頃に撮った写真は超とがってたけど、すごくやさしかった。その時以上のものを今撮れるかわからないくらい心で撮れていたから、その時の気持ちは忘れずにいたいんです」
 飯坂が「フォトグラファー」と自称するのにはこだわりがある。
「カメラマンを否定しているわけではありませんが、カメラマンになりたいわけではなかったので。自分じゃなきゃできないことを仕事でも日常でもやりたいし、そういう自分でありたいとの気持ちをその呼び方に込めているんです」
「写真はきっかけ」と語る飯坂には、かつて小学校教師を目指していた時期がある。
「教育者でいたいという思いは今も変わっていません。自分が受け取ってきたことを子供たちに伝えていくとは次の世代を意識し始めた26,7歳の頃に決めています。写真をやっていても、医療や介護に携わることができると思っています。結局、介護も教育も写真も旅も自分の中ではすべてつながっているんです」
 飯坂は過去、スタジオマンや介護職員、アウトドアメーカーのショップ店員以外にも、いくつか仕事を経験している。沖縄の製糖工場での日雇いの仕事、派遣社員としてカスタマイズするパソコンを売る仕事をそれぞれ3ヶ月程度、豆腐の引き売りやメッセンジャー(自転車便)、カフェ店員を約半年ずつ。「やる時はとにかくとことん。完全燃焼」だった。
「何らかの目的を持って携わったどの仕事も楽しんでやれたし、すべて今に生きています。遡れば、誰かのために生きていた子供時代、何をしたらいいのかわからなかった大学時代とつらい思いをしてきたけれど、それも全部今に生きている。
 これまで僕がやってきたことは、履歴として色んな若者たちに伝えていけるなとは思います。「いっぱい失敗すればいい。背伸びしているから、カッコつけてるからつらいんだけど、思い切って自身をさらしてみればいい」今となってはそう言える。自身、僕がかっこいいと思う一回りほど上のアーティストというか表現者の人たちに支えられてきたからこそ、その「あ、かっこいいな」を若い世代に伝染させていきたいんですよね。
 そして、この人と一緒に働きたい、何かをしたいと思われるような生き方をしたいんです。さらには、自分もそう思えるような人たちとつながっていたい。だから、人となれ合いの関係ではいたくないんです。実際、過去を引きずったり、ネガティブな話をするメンバーとは一人もつながっていません。一方で不思議と、酒を飲んでいてもいなくとも実のある話ができる人とはつながれています。
 大学時代の親友は今、自分の二本足だけで立って生きています。ある意味、お互いを監視し合う関係が築けています。大学で出逢った人間は皆一流になっていて、お互い切磋琢磨していく関係を持てています。やっぱりそういうのって伝染していくというか、人は人を呼ぶんです。
 かつて「何かしたい」という思いを抱いていた僕は、その実自分のことしか考えていなかった。でもある時、自分が自分らしくいい顔をして生きていれば誰かを幸せにすることができると知りました。なかなか難しいことだけど、欲されたい、愛されたいじゃなくて、まずは誰かに「与える」べきだと思うし、自身もそうなれたらいいなと思っていますね」

 

<編集後記>
30歳になったときに味わえる「感無量」とは、若さという特権をフル活用した人間のみが手にできる“特権”なのかもしれない。

 

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