ライフストーリー

公開日 2015.1.10

Story

「ほんとは「失敗」ってないんじゃないかと思うんです」

俳優 / 研修講師 夢実子さん

Profile

1961年生。山形県出身、在住。高校卒業後、劇団らくりん座(栃木県)に入団。役者人生をスタートさせる。その後、上京し、フリーの役者として数々の舞台に出演。付き人やTV出演などの経験も積む。98年、山形に帰郷。01年より、ひとり芝居「真知子 ~ある女医の物語~ ※1」の公演を開始。現在、『山形の女を物語る!シリーズ 第二弾』と名を冠した、「真知子」に続く「中川イセ物語(仮題)※2」を制作中。芝居の公演活動のほか、講演、ラジオのレポーター、MC、ナレーター、指導者としては「声と言葉のレッスン」の主催、東北文教大における授業、企業研修など様々な仕事をこなす。本名、今田由美子。Webサイトはこちら

※ 約9,000字

※1 山形県西川町大井沢地区で女医として僻地医療に尽力した志田周子(1910-62)を取り上げた物語。
※2 網走市にて28年間女性議員を務めた「北海道網走開拓の母」との異名を持つ天童市出身の女性(1901-2006)を取り上げた物語。

 

「役者」という礎

「15年ほど前。山形にUターンした当初は、指導者的な仕事をやることになるとは思ってもみなかったんです」

帰郷後、6年。夢実子が「自分のやっていることを形に残していきたい、伝えていきたい」との思いで、アマチュア劇団の団員向けに有志たち数人と半ばボランティアのような形で、夢こやワークショップ(演劇ワークショップ・以下ワーク)を開き始めたのは04年のことだ。その翌年、村山児童劇団からの依頼を受け、演技指導に携わるようになったことを皮切りに、指導者としての仕事は徐々に増加。その一つが、ここ数年増加傾向にある、07年頃より受けるようになった企業研修の仕事である。
「当初は、私のことを知っているから頼んでくださっていたという程度でした。でも、世の中が変わってきて、最近では「理論より感性」というか、モチベーションを上げるためには個人のメンタルな部分への関わりが大切と考える風潮が強まっているように感じます。私がやっている、強制的ではなく、本人が自ずと動けるように個々のメンタルを刺激するようなワークは必要だと評価してくれている経営者の人も増えてきました」

さらに07年より夢実子は、東北文教大学にて非常勤講師を務めている。文科省が推進する「次代を担う子どもの文化芸術体験事業」の一環として小学校などで「表現の楽しさを体感させる授業」をすることもある。

現在のところ、演劇の授業は音楽や美術などを含む教科「芸術」の中に組み込まれていない。
「型にはまらないからなんでしょうけど、マニュアルを突破することが演劇のおもしろさだと思います。それに本来、「人間」を扱っている演劇って、極めて重要性の高いことなんですね。人間であれば誰もが使う五感の能力や、人と接するうえで必要な思いやりや優しさなどの要素を全て含んだ総合芸術だと思います。

だから、演劇は人生を疑似体験できる場と言えるんじゃないかと。「思いやりを持て」とか「人に優しくしなさい」と言葉で言われたって、頭ではわかっているつもりでも、行動として表せなかったりするじゃないですか。演劇のツールを使った身体を動かすアクティビティを通して人と接触し、痛みやら何やらを体感することで腑に落ちる、つまり真の理解につながっていくのだと思います。もちろん、わかりやすく人に伝えたりするために、体感したことを客観的に整理する能力もあるに越したことはないでしょうけど」

学生に対し、「私はもう手を出さないから。私は、あなたたちがどう生きようが関係ない。やりたくない人はやらなくていいんだよ」と、あえて厳しく突き放すこともある。
「たしかに、私の中にも嫌われたくない気持ちはあります。でも、彼らのことを想うとやっぱり、理解して、ちゃんと体に落とし込んでほしい。自分の頭でものを考えたり、自分で道を選んだりしていく強さを養ってほしいとは思いますから」

2013年からは、自らが主催する『声と言葉のレッスン』を始めた。
「レッスンはまず、自分の声を知るところから始まります。「うまく声が出せない」「人前でしゃべれない」という悩みを抱えて来られる人が多いのですが、よくよく聞いてみると皆さん機能的には問題なく声を出せている。メンタルなところに左右されているところが大きいことに気づくんです。

そこからセッションのようなものを進めていくうちに、参加者が「大きい声を出すことを自分に許してなかったんだ」とか「息を吐いてなかったんだ」という気づきを得ると、大きく変わっていきます。そして自分を閉ざしていた殻を破れたら、発声練習など、その人に合った方法を模索、提案しながら、その人がより気持ち良く声を出せるように導いていきます。その場合、こちらとしては、参加者の人が殻を破るお手伝いをするという感じですね」

その他、イベントの司会を務めることもあれば、講演を頼まれることもある。
「傍から見れば、私は役者と指導者の「二足のわらじ」を履いているように映るのかもしれません。でも、私の中では分けることができない。どちらが欠けてもダメなんです。私の場合、演劇というか役者のところから全てがスタートしているので、「役者をやっている夢実子」がボイストレーニングや講演、司会をやっているのであって、逆ではないんです」

 

「私」を突き動かしてきた「もう一人の私」

「誰か有名な芸能人や好きな俳優に憧れて入ってくる人が多い役者の世界でしたが、私の場合は違ったんです」

そもそも、夢実子が役者を目指し始めたのは小学生の頃。一つの原点となったのは、――のちに自身の仕事となった――学校巡回劇団の劇を観たことだった。生まれて初めて見る生の舞台は、夢実子の幼な心に鮮烈な印象を残した。劇中のワンシーンは、40年以上経った今でも記憶の底に焼きついたままだという。

小中学校時代、夢実子は、当時一世を風靡していたTV番組「スター誕生!」の出演をかけたオーディションを受けたり、劇団のオーディションを東京で受けたりした。後者は、週刊誌に掲載された「あなたもタレントになろう!」という小さな広告を見つけて、親に相談することなくひそかに応募したもの。当時の芸能界は、「今のようにAKBのオーディションが山形で行われることなどなく、はるかに遠い世界だった」。

自発的に行動を起こした夢実子だが、行動に移すまでにはあるせめぎ合いが続いていた。
「小さい頃の私は人見知りで、自分の思いを伝えることができない人間でした。自身の心の底から湧き上がってくる熱いものの存在は自覚していたけれど、恥ずかしさや遠慮などに負けて表に出せない。だから、背中をポンと押してくれる誰かが現れることを期待していたんです」

大人になってから自覚したことだが、夢実子の中には常に「積極的で、根拠のない自信がある私」と「小心者で怖がり。自己肯定感の低い私」という対極的な“二人の私”が拮抗しながら同居している。成功のイメージを抱かせるのは前者の私で、二の足を踏ませるのはいつも後者の私。その時オーディションに申し込めたのは、最後に前者の「積極的な私」が勝ったからだった。

さて、在京劇団から合格通知が届くも、娘の年齢や金銭面などを考慮した親から反対されたため、夢実子はいったん夢を断念する。「役者になりたい」という燃えさかる思いに蓋をして、山形で高校生活を送り始めた。高校では入学後すぐ、演劇部に入部。「私はプロになる人間だから、他の人たちとは違う」との思いを胸に秘め続けた3年間だった。

そして夢実子は、卒業後すぐ、劇団らくりん座(栃木県)に入団。演劇の世界に飛び込んだ。

それから約10年――。
「東京で役者をやるようになっていた20代後半頃のことでしょうか。後輩から「なんで役者をやってるんですか?」と訊かれて、私は今までそれについて考えたことがなかったことに気づいたんです。そして、「有名な俳優などに憧れて」という人が周りには多いけど、私は「自分自身を表現したくて、そして演劇で身を立てたくて」入ったんだと、気づかされたんです」

未来へと向かってただひたすらに今を生きる、当時の夢実子を動かしていたのは、唯一「好きだからやっている」という思いだけだった。「好き」という気持ちに説明はいらない。周りも同様に「好き」でやっている人ばかりで、そういった質問を尋ねられることもない。そんな世界にどっぷりと身を浸していた夢実子にとって、過去を振り返ったり、原点に立ち返ったりする必要性は一切なかったのだ。

それから、10年。夢実子が生まれ育った山形へとUターンしてきたのは、98年、38歳の時のことである。20年ぶりに戻ってきた故郷での生活は、「どうすればこの田舎で役者として身を立てられるのか」を模索することから始まった。
「プロとして役者で食べている人が山形で一人でもいたらおもしろいんじゃないか。戻ってきてしまった以上、プロとしてやれるように頑張ろうと意欲に燃えていたというか単純な発想だったんです。ただ、それがすぐに叶うわけもなく……」

金がなければ、コネも、(芝居の)仲間もいない。間もなく夢実子は、頭にはあった「需要のない東北では、そういう商売は成り立たない」ことを身をもって実感する。想像以上に生い茂る“茨の道”へと足を踏み入れた瞬間だった。

01年からは、自主公演をきっかけとしてひとり芝居の公演依頼がポツポツ入り始めたとはいえ、公演時は毎回手弁当。助成金があったところで、食っていけるだけの収入を賄えるわけもない。制作費がないという現実の中、夢実子の思いに共感したアマチュアの劇団員らが手伝ってくれたことは幸いだった。だが、自身の生活さえ危うい状態である。せめてものお礼として彼らの弁当代を捻出することすら懐が痛んだ。

そもそも、山形では「芸事で食っていく」という道どころか、思考の土壌すら形成されていない。Uターンして以来、夢実子は幾度となく周りから「趣味だべ」という心の声を受け取ってきた。
「「芸事でお金をもらえる人、芸事で食べている人」という一般的なプロの定義からすれば、指導者としての仕事があるおかげで生活が成り立っている私は、今でさえプロじゃない。

でも、技術の巧拙とかで定義づけるならば、たとえ飯を食えていなくとも「プロ」に該当する人はたくさんいるんです。

大げさに言うわけじゃないけれど、ともかく、私はこの十数年、食えるか食えないかの瀬戸際で、ある意味生死をかけてひとり芝居に取り組んできました。普通はやらないですよね。(笑)3年やって収入にならなかったら、見切りをつけると思います。でも、私にとって「演じる」とはそういうことじゃないんですよね」

帰郷後、「この人物を取り上げた作品を作ってほしい」というオファーはいくつかあった。
「でも、予算も後ろ楯もない。そして何より、舞台にせよ映画にせよ、心が動かないことにはできないんです。

この仕事は下手すれば時給100円どころかそれにも満たないものになる。それでもやる、食えなくてもやるという思いに突き動かされないとやれないし、実際にそうやってきました。振り返ってみても、ただ私の中にいるもう一人の私がやりたいって思うだけで動いてきたとしか言いようがない。そこに理屈なんてないんです。

ただ、「やりたいからやっている」という域は超えなきゃいけないし、超えていると思います。だからこそ、お代も頂戴できるわけですしね」

 

得られた気づき

現在、夢実子が所属する「オフィス 夢実子」に従業員はいない。よって、どこかの芸能事務所に所属していればマネージャーがやるような営業、広報、集客などの業務も、ほぼすべて夢実子自身でこなしている。いわば、「夢実子」のマネージャーが「今田由美子」なのだ。
「自分が動かない限り、誰も動かない。自分が動いて、そこに共感が生まれて初めて人が動くわけです。

遡れば、村山児童劇団や文教大での講師の仕事を受けてきた過去があるからこそ、講演会や、就職支援センターから研修講師の依頼を頂いている今につながっていると思うんです。結局、仕事はご縁から生まれるんですよ。