ライフストーリー

公開日 2015.2.9

Story

「強くないから、強さに憧れ、強さを追い求めるんです」

フィジー共和国 Free Bird Institute 理事長 谷口 浩さん

Profile

1972年生。福井県出身、東京都在住。高校卒業後、中国政府のスカラシップを活用し、上海の同済大学応用物理学部に進学。2年の時に建築学部に転部、4年の時に中退。その後、香港の不動産会社、タイの建築会社にて勤務。97年、アジア経済危機の影響をもろに受けて帰郷。父が経営する建設会社に入社するも、1年半で辞職。同時に財産放棄の書類に判を押す。その後、石川県金沢市にて中国人労働者向けに日本語教育等を手がけ、国内企業への人材を提供することを主な事業とする協同組合を設立。4年間で売り上げ3億8000万円の規模まで成長させたのち辞任。04年3月、フィジー諸島共和国での語学学校の運営を経営の柱とした (株)South Pacific Free Birdを設立。10年には、フィジー政府より任された、運営が立ちゆかなくなった国立高校の再建に着手。並行して、日本人高校生の受け入れも始める。10年間で受け入れた留学生はのべ15,000人を超える。13年12月には株式公開を済ませ、15年2月末には南太平洋証券取引所に上場予定。建国を目標としている。

※ 約15,000字

しかるべき社会の姿 1

「〈教育で変えられる部分は2割しかない。残りの8割はDNAによって決まる〉教育業に携わっていながらにして、僕はそう考えています。

たとえば、学校で同じ内容を勉強していても、クラスで一番の人もいれば、最下位の人もいるわけですよね。その両者が20歳になったときのことを考えましょう。

前者の優秀な子は多くの情報や知識を蓄積して東大などで2年生になっているとする。一方、後者の出来の悪い子は中学校を出た後、高校に行かずに4、5年働いて20歳を迎えたとする。その時点で両者を比較すると、かわいそうだけど、出来の悪い子は優秀な子の10分の1にも満たない情報量しか持っていないと思います。そもそも記憶力が低ければ、その時点でもうダメでしょうから。コンピューターで言うところのHD(ハードディスク)の容量で差をつけられている上に、CPU、つまり頭の回転が速いか遅いかという要素が加わったら全く相手にならないでしょう。

同じ家庭で育った兄弟が、能力的に全く違ってくるパターンもDNAの仕業でしょうね。頑張る能力やストレス耐性の有無といった違いは、双子の兄弟ですら顕著に現れます。だから、かたや刑務所暮らし、かたや総理大臣というケースは十分あり得るはず。

やっぱり、DNAに左右される部分の方がはるかに大きいんじゃないかな。2割どころか、実際はもっともっと低いでしょう。残念やけど、現実は残酷ですよ。だから、もし自分の子供の出来が悪かったらどうしようかなと思いますよね。もし我が子が隣の家の下着を盗んできたとするならどうしますか? 僕は迷わず殺しますよ」

そういった谷口の思想は、自身が歩んできた過去から作られたものでもある。
「不思議なことに、小学校3年生までしか記憶はたぐり寄せられないんですよ。それも、靴に穴が空いたという現象をそっくりそのまま覚えているだけ。上書きされたり、違うものに塗り替えられたりするのかもしれないけれど、それ以前の記憶は全くないんです。

まぁでも、子供の頃の僕はひどかったですよ。学校の授業は毎回のように妨害していましたから。先生よりも高い知能を持っていた上に、本を読んで物も知っていたから、30代40代の先生と討論しても、言い負かすことができた。僕にとっては先生よりも高い位置に立てることが楽しかったんです。まぁ、先生にとっては悔しかったでしょうけど」

谷口は小学4年の時に一度、市と県の教育委員会からの要請で精神病院に連れて行かれたことがある。そこで知能テスト、ロールシャッハテスト、心電図などの検査をして以来、谷口は「体育の授業は出なくていい」などの特別扱いを受けるようになった。

その後、あまりの落ち着きのなさゆえ、5年生になるまで寺から学校へと通わされたこともあれば、父が理事を務めるラグビースクールに入れられたこともある。
「僕と口喧嘩をして勝つのは無理でしょう。「カラスが白いです」という命題を与えられても勝てる自信はありますよ。本ばっかり読んできたおかげで知識もありますから。今でも暇さえあればWikipediaを読んでますしね。

なかなか珍しいらしいですけどね、僕のように理系で言葉も達者というのは。よく「どうやって覚えているんですか?」って訊かれるんですけど、そもそもまず「覚える」という機能が人より相当優れている。その上、「覚えたものを正確に話す」という段階でのCPUの処理速度が驚異的に速いんだと思います。だから、僕、仕事をこなすのは超早いですよ。

そういうのもDNAでしょうね。特殊なトレーニングを積んだわけでもない小学3、4年生が、3,40代の先生を負かせたことにしても然り。残酷ですが、現実はそんなものでしょう。

そんな現実の中で、教育にできることと言えば、(大人が)何かを見せてやるしかないんじゃないか。少なくとも学校に行かせてやるしかないのかなと思うんです。

現在、日本の国の国家予算は約100兆円。そのうち約25兆が社会保障費として使われていますけど、僕はそれを全部削って、学校を無償化にする方に割くべきだと思います。能力的な問題ではなく、親の経済力が低いという理由で学校に行けない人は、行かせてやらないといけないなと。

でもその代わり、大学卒業以降、福祉は一切なし。国が個人に対して生活保護とか障害者年金を与えている今は、「社会が弱者を助ける」という構造になっています。そもそも、そういうものを受け取っている人たちは弱者になるべくしてなっているわけでしょう。つまり、彼らが弱者になるのを社会が助長しているということ。だったら、いっそなくしてしまった方がいいと思うんです。

僕はこの会社を起こして10年経ったけれど、10年間、1日も休まずに働いて、納税もちゃんとしています。少なくとも僕の納めた税金の一部は彼らの手にわたっているわけです。だから本来、彼らはそのことに毎日感謝すべきだと思うんです。

にもかかわらず、市役所の前で「生活保護費をよこせ」とプラカードを持って抗議している連中がいるわけでしょう? おかしいですよね。

地域おこしや村おこしのような、社会が社会を助けるという構造でも理屈は同じ。過疎が進行している地域では、むだに立派な公民館が建っていたり、イノシシくらいしか通らないであろう道が二車線に拡張されていたりする。馬鹿げてますよね。

そもそも、そんなところに住むなという話ですよ。「もし住みたいならば、自分で稼いで納税して、社会を良くしなさい」と僕は言いたい。少なくとも、田舎の人は都会の人からの援助がなくなった時にどうしないといけないかを考えるべき。

理想的なのは、日本の政府がなくて、「○○市」「○○村」といった各々の自治体が自分のところの税金で橋を建てたりというように経済がその中で循環している社会。だから、たとえばある市は未来都市みたくなっている一方で、そこからさほど離れていないところにある市はスラム街みたくなっているという社会の成り立ちは然るべき姿だと思うんです。

悲しいかな、日本の現状は違いますけどね。道徳観の影響からか博愛主義的な考え方が根強い日本では、「福祉」や「人を助ける」ということは美しいことと認識されています。でも、本来それは助けられる側が持つ「権利」ではなくて助ける側から与える「施し」でしょう。江戸時代にしても、飢えた人にご飯を食べさせることはあったと思いますよ。でも、少なくとも食べさせてもらった側は「ありがとうございました。明日は頑張って仕事を見つけて働きます」という形だったはずなんです。
ひるがえってそれが「福祉」として制度化された今は何なのか…という感じですよね。

僕がまだ小さかった1980年頃、大阪や京都の駅に行くと真っ黒の服を着て、靴も履かずに寝ているホームレスを見た時、うわ、ちょっと頑張らんといかんなと思いましたよ。親からも言われましたしね、「勉強せんかったら、こうなるよ」と。インドとかでも然り。飯もろくに食えずにガリガリに痩せている人間が路上にゴロゴロいるところを見て、やばい、サボってたらこうなるわ…と思ったら頑張るでしょう?

でも今の日本はそうじゃない。そういう人たちでも区役所に行けば月15万ほどのお金をもらえたり、ニートが家で毎日ゲームをしながらでも暮らしていけたりする。それはやっぱりおかしい。何にもしなかった奴でも生きていけるという光景は、子供に見せたらダメですよね。教育を受けなくとも何とかやれるんだったら、学校に行く必要はないでしょうから」

 

しかるべき社会の姿 2

「やっぱり、教育の真の姿って、自分で自分の能力をどうやって高めてゆけるかってところにあるはずなんです。にもかかわらず、大変残念なのは、日本の教育現場に立っている人間も行政の人間も、どちらかと言えば困った人がいたらエサの獲り方を教えるんじゃなくて、エサをやろうとすること。福祉のベースがあった上に作られた教育は、教育じゃないですよ。「困った時にこう生きましょう。困った時に役所に行ったらお金くれますよ」今の教育はそれですから。

そもそも、教育と福祉は相反しているんです。社会にはどちらかしかいらないと思うし、もし仮に福祉国家と僕の考える教育国家がよーいどんで競争したら、絶対勝てる自信はあります。「福祉というものは、日本の国にはない。弱い奴は皆、死ぬ」というのが社会常識となるべきですよね。

だって、それは自然界では当たり前のことでしょう。今まで自力でエサを獲れていたライオンが、怪我をして獲れなくなったら死ぬ運命にしかないわけで。まぁ、それまで仲間に優しくしていたりしたら、彼らがしばらくの間であればエサを獲ってきてくれるかもしれません。それはつまり、そのライオンが今までどう生きてきたかに左右されるわけですよね。

転じて人の場合でも、普段から近所ですれ違った時に挨拶をきちんとしたり、かわいらしく生きていたりするような人だったら、足が折れたりして困っている時には近所の人たちがご飯を持ってきてくれたりするはずです。逆に、威張り散らしていたりしたら、誰も助けてくれないのは目に見えている。だから、自業自得ですよ。

実際、そういう未来が見えているのなら、人間はいい行いをしようと思うようになるはず。そこで危機感みたいなものを感じてはじめて、清く正しく生きようという思いを抱くはず。そしたら自ずと、挨拶もするようになるでしょう。孫や息子にも優しく接するでしょう。コミュニティは本来、そういう風にして作られていくのでしょうから。でも現実には、皮肉にも社会がコミュニティをオーガナイズしていく過程でコミュニティは崩れてしまっていますよね。

それは、分業化が進みすぎた今の社会が生んだ弊害でもあるでしょうね。たとえば、昔はみんなが警察の機能をちょっとずつ持っていたわけですよね。道を教えたり、泥棒が逃げていたらみんなで追いかけて捕まえたりというように。それが「お巡りさん」という立場の人間が出来て任せるとなると、各々が引き受けていた義務を放棄することになる。

そうした分業化は、社会的な事柄のみならず、個人的な事柄においても起こっています。魚を自分で獲らなければ食べられなかった、そしてお米も自分で栽培しなければ食べられなかった昔から、物々交換をするようになって…というプロセスを経て今の社会があるわけです。確かに「より効率化されている」という側面はあるけど、今はさすがにちょっと行き過ぎじゃないかなと。

人を助けることにしても同じですよね。本来、親戚間なり家族間なり、お互いでやるべきことであって、少なくとも国家がすべきことじゃない。だからもし自分の子の出来が悪かったり障害を持っていたりしても、国を頼るんじゃなくて自分が何とかせないかん。でも、助ける、すなわちエサをやり続けていると、自分が死んだ時にはその子は食っていけないわけで。そこで、改めて考えるわけですよね、おい、ちょっと、エサの獲り方を教えておかないといかんぞと」

2010年。フリーバードは、フィジー政府から運営が立ちゆかなくなった国立高校の再建を託された。当時、在校生のFSLC(日本でいう全国模試)の平均点は100点中35点。レベルとしては「下の下」の学校だった。それもそのはず。授業中、教科書を持っているのは教師だけ。家庭に買う金もなければ、学校側から買い与える余裕もなかったのだ。