#84 自由業 米倉 隼志さん

84 米倉隼志さん#84 自由業  米倉 隼志じゅんし さん

「生きている限り、何かを追求しつづけていたいんです」

Profile
1986年生。鹿児島県鹿児島市出身。高校1年の頃より、国内ヒッチハイクの旅を始める。高校卒業後、美容師になるために上京、美容専門学校に入学。在学時に写真を始める。07年より都内で美容師を勤めること丸3年。2010年末より3ヶ月間フィジーの語学学校に通ったのち、バックパッカーとしてカメラとハサミを片手にポリネシア、アジア、日本の離島などをまわる。11年10月より「英語力アップ」と「貯金」を目標に渡豪。様々な仕事を経験しながら約2年間の英語圏出稼ぎ生活を送る。その後、生活の中に「ものつくり」がある北欧の暮らしに興味を持ち、14年1月より1年間、デンマークのフォルケホイスコーレに留学。ガラスアート、手工芸などを学ぶ。また同年1月より鹿児島県を拠点にキャンピングカーレンタル事業「うぃんうぃんとらべる」の運営を開始。2015年1月末、日本に帰国。Webサイト『MEMOGRAPHY -キオクノキロク-』   ※文中敬称略

記事公開:2015-02-20

“豊かさ”を追いかけて
「日本は忙しすぎて、息がつまる。果たしてこういう生活は人間としてどうなんだろう?」
 2010年12月、そんな問題意識を胸に米倉は日本を発った。3ヶ月間、日本のベンチャー企業が運営するフィジーの語学学校に通うためだった。
 語学学校卒業後は旅を通しての英会話力向上を一つの目的にオセアニアのツバル・フィジー・トンガ、アジアのタイ・ネパール・インドなどを周り、翌年4月に一時帰国。実家の仕事を手伝った約半年間を経て、2011年10月に渡豪した。
 最初の半年は、日本人向けのフリーペーパーを発行している会社で編集者として働く傍ら、飲食店でのアルバイトをかけ持ち。その後、セカンドワーキングホリデービザを取得するためになまず漁の仕事に従事すること4ヶ月。パン屋、コーヒーショップ、日本食レストランなどでも働いた。アルバイトが休みの日などは、口コミや掲示板を利用して出張美容師をこなしたり、求職中には旅をからめながら英語の勉強をしたり。ただ漫然と過ごす時間は作らないように過ごした2年間だった。(※ ビザの関係上、同じ雇用主の下では6ヶ月までしか働くことができない)
 その後、2013年12月末よりデンマークにて過ごすこと1年。現地のホイスコーレに入学し、陶芸、ガラスアート、織物、編み物、洋裁など主に「ものつくり」を学んできた。
 10代の頃より、米倉は「アジア・オセアニア3年、アフリカ・ヨーロッパ4年、北米・南米3年(計10年)の海外生活を経て本帰国」という青写真を描いていた。その青写真にしたがえば、2015年現在、米倉は5年目にあたる時間を予定通りの場所で過ごしていることになる。
 現在米倉は28歳。今後5年ほどの時間を、生活の中に地産地消が組み込まれている人々や自給自足の生活を志す人々と暮らしを共有することに費やそうと考えている。自身の将来の生活にもなるべく自給自足の要素を取り入れていくつもりである。
「これからはもっともっと違ったカタチの“暮らしの豊かさ”に、僕たち若い世代が価値を見い出さなきゃいけないと思うんです。生きるために必要不可欠ではないものを消費することにとらわれるがあまり、最低限必要なものを自分たちで生み出すという行為をおろそかにしてしまったら、――僕に限ったことなのかもしれないけれど――今後ますます日本には住みづらくなっていくんじゃないかなと。何が含まれているのかわからない食べものを、次世代の子供たちに食べさせたりしたくはないですから」
 そんな“豊かさ”は旅で知った。3年ほど前、トンガやフィジー、ツバルなど、オセアニア圏に位置する小さな島々で出逢った現地の人々は、とても幸せそうに映ったのだ。
「むろん日本と比べれば、生活ははるかに不便だし、仕事も十分にはない。教育も医療も行き届いてはいない。彼らにしてみれば生活は大変で、日本人が何でこんなところまできて目を輝かせて旅をしてるんだって思ったかもしれない。
 でも、気候が良いから、生きるために必要な食糧は自分たちで十分にまかなえる。生活水準によっては栄養が偏るかもしれないけれど、よっぽどのことがない限り食べものに不自由することはなさそう。それに何より、家族が一緒に過ごせる時間がある。そんなシンプルな幸せのかたちが彼らの生活にはあったように思うんです」
 だが、知ったがゆえのもどかしさも出てきた。
「(周りを見ていて)当たり前の幸せだけで十分なんだってことを知っていれば選択肢は広がるし、もっと楽な気持ちで生きられるのにって思うんです。高級料理を食べに行くのもいいけれど、時にはそれを少し我慢したり仕事の時間を少し減らしたりして作った時間を積み立てて何かできることもあるような気がする。誰かが言っていたけど、「生きてるだけで丸もうけ」というような感覚を持てればいいんじゃないかなと」
 米倉が旅先できまって訪れたくなるのは、国内外問わず「“モノ”が必要以上にあふれていない場所」や「昔ながらの生活が今も継続されている場所」である。たとえば、世界各地で暮らすいわゆる“少数民族”や“原住民”――オーストラリアのアボリジニ、モンゴルのウイグル、カナダのエスキモーなど――の生活を自ら体験しつつ取材することなどには興味がある。彼らの暮らしのあり方や豊かさを身をもって感じたいというのもあるからだ。
「たしかにそういった場所でも、“モノ”は着実に増えています。でも、生活の中心にあるのはいまだに狩猟や農耕なんじゃないかなと思うんです。生活必需品のほとんどを輸入品などに頼りながら都会で生活する人々にとっては、“食べること”と“生きること”は直結しづらいもの。一方で、そういった場所では“(育てたり、獲ったりした食べものを)食べること”と“生きること”がわかりやすくイコールで結ばれているように感じるし、僕はそこに豊かさを見出しているんです」
 専門学校時代から5年半過ごした東京は、モノがあふれているように感じる場所だった。東京を含めた都会、そして日本には否定的だったからこそ、隣の芝生が青く見えているのかもしれない。あるいは無いものねだりをしているのかもしれない。
「都会の生活なりのいいところはあるのかもしれないけれど、僕はそれとは違うものに魅力を感じているということなんでしょう」

自身に設けた“最低限”
 米倉が“外”に目を向けた理由は他にもある。
 美容師の専門学校に通うために上京したての18歳の頃。米倉は「世界を視るフォトジャーナリズム」雑誌『DAYS JAPAN』を読むようになっていた。
 あるとき、アフリカの少年兵を取り上げた記事が目にとまった。アフリカで少年兵として生きる10代の彼と、日本で生きる10代の自分。両者を相対化する視点が生まれた。
「日本という国に生まれ育ってきただけで、自分はすでに十分幸せなんだと改めて気づいたと同時に、ぬるま湯につかっているようにも感じたんです」
 さらに少年兵は、我が身を顧みる機会を米倉に与えた。
 思えば、自分は誰かが作った服を着て、誰かが作ったものを食べて、誰かが生み出した仕事をこなしているだけ。服が破けたら買い替えることはできても、作り方や直し方はわからない。のみならず、髪を切ることやご飯を食べること、とかく何をするにせよ自分の行為が一度お金に変えられる生活であり世界に僕はいる。便利なのは確かだけど、果たしてそれでいいんだろうか。僕たちから仕事をとってしまったら、いったい何が残るんだろう……?
 湧き起こる問題意識は、米倉に新たな物差しを与えた。
 仕事ができるか否か、勉強ができるか否かといった問題じゃない。1人の人間として、「人間力」ないしは「生きる力」のようなものが足りていない。このまま日本で生活を続けていれば、日本から一歩外に出てしまったとたん何もできなくなる大人になってしまうかもしれない。自分はひどく無知であり無力だ。自分も含めた現代人の多くは、一個人として見ればすごく頼りない存在だ。
 だったら、今のうちに外に出ていろんな経験をしよう。まずは、言葉を知らないが故に、日常会話程度のコミュニケーションをとることすら危うい国に行き、頼れるのは自分の身一つという状況に身を置いてみよう。そして、現地の人々とコミュニケーションをとりながら、自分で畑を耕して作物を作ったり、自分の手で動物や魚を捌いたりと、自給自足的な生き方を基礎とした生活をすることからはじめてみよう――。
 少年兵に感じたコンプレックスは焦りとも危機感ともつかぬ思いに変貌し、米倉をせきたてた。
 3年で美容師生活にピリオドを打った2010年からは、ほぼ計画通りの道を歩んできた。フィジーの語学学校で「英語圏で生活していくために最低限必要とされる、英語を通じたコミュニケーション力」を培ってからは、オセアニアやアジアへの旅を肩慣らしとし、オーストラリアでの一時定住へとステップアップ。現地では庭で野菜を育て鶏を飼い、その肉を自らの手で捌いて食べたり、なまず漁をしていた時は毎日魚を捌いて食し、休日には職場のボスとカンガルー狩りへと出かけ、カンガルーの肉を食べたりと、思いを実践に移していった。
「命を食べることの尊さ。それを僕は、人間として最初に覚えるべきことの一つだと捉えています。命あるものを食べるなら、一度は自分の手でその命の重さを感じるべきだと思っています。食事の際に、いただきます、ごちそうさまと言う日本文化があるのは、たぶんその証。でも、今やその言葉の重みは薄れてしまっている気がするんです」
 自給自足的なことはいつしか米倉にとって、社会人として認められる以前に1人の人間としてできていたい、やっていきたい“最低限”のことになっていた。
 2014年1月からデンマークへ留学し陶芸や手工芸を学んだのも、自分なりの“最低限”をクリアするための必要条件だった。「高福祉高負担」の北欧諸国の一つとして幸福度の高さなどでも注目されているデンマークという国に興味があったというのもある。だが、それ以上に破れた衣服を縫ったり、生地から服を作ったり、自分が使う茶碗を自分の手で一度作ったりすることは米倉にとって重要だった。そしてそれは、かつて身を浸していた“消費社会”に示す反抗であり、少年兵によって浮かび上がらされた自身の無力さ、頼りなさを克服していくためのワンステップだったのだ。
「自分なりの“最低限”をクリアできてこそ、迷うことなく写真を通して社会と関わっていけるんじゃないかと思っています」

足元を見つめて
 海外生活、旅、英語、写真…。米倉にとってはそのどれもが設定する最終地点から逆算して描き出した道筋でもある。
 今のところ、最後に戻ってくるのは日本であり、実家がある鹿児島は特に関わっていきたい地域である。最初は小規模なものでいいから、廃校や空き家のような場所を買うなり借りるなりしてフリースクールを始めたい。先日卒業したフォルケ・ホイスコーレもそのビジョンを実現させるための一つの羅針盤となっている。
「教える側の人間を日本人に限定しなくてもいいかなと。これまで僕が海外で出会った人たちが教えてもいい。テーマは英会話や日本文化などを含めた「国際社会でも通用する一般教養」、陶芸や手芸など「暮らしに関わるものつくり」、写真やアートなど「自己表現の手段」、ヨガやマッサージ、料理など「身体や健康に関わるもの」……。結局何でもありなのかもしれない。そこに学びたい人がいて学びたいものがあったら成立しうるのかもしれない。技術がある人は技術を教え合う形で交換すればいいし、教えられるものがなければ対価としてお金を払えばいいと思うんです。ともかく、そこにいるみんなが教師であり生徒であることができれば、しだいにお互いに学べる場として機能していくんじゃないかなと。
 何にせよ、そういう場を作るにはたくさんの人たちの助けが必要なはず。だから、僕は多くの人が一緒に頑張りたくなるような人間になるために、常に目標を持って頑張らなければいけないなと思っています」
 海外生活10年という設定期間にも通ずるところはある。単に言語としてではなく、文化の一つとして英語を教えられるようになりたいとの思いがあったからだ。
「英語を教える人が必ずしもネイティブではなくてもいいと思うんです。生粋の日本人である僕のような存在が、海外生活を通して生身で感じてきたからこそ伝えられるもの――諸外国の文化の違い、その上でのコミュニケーション能力の重要性――を言語と同時に伝えていくことは、母国語以外の言葉を修得する上でとても大事なことだと思っています」
 日本を発った当初は「日本以外の国で暮らしていく中で外国文化を学び、国外で写真家を目指そう」と考えていた。少なくとも日本に永住するつもりはなかった。だが、いくつか国をまわっていくうちに考えは変わってゆく。
「結局住むところはどこでもいい、だったら日本人だし日本に住めばいいやと。日本人として生まれたことを運命さだめとして受け入れようと思ったのです。どこに生きるかよりも、誰と生きるかの方が大切だと思ったというのもありますね」
 2011年5月にアジアの旅から帰国した後、米倉は3ヶ月ほど実家の仕事を手伝う傍ら、将来自分が暮らす場所を探すための旅をした。目的地として選んだのは、少子高齢化、過疎化が顕著な小さな島々だった。
 四国のとある島に行ったときのことである。住民の平均年齢は約80歳。もはや若い人は残っていない。かつては大家族で暮らしていたであろう大きな家に老夫婦が二人だけで住んでいたり、長らく放置されゴミ屋敷のようになった空き家が散在していたり。このご時世、日本の離島や田舎ではさして珍しい話でもない。だが、島をまわり、そうした現状を目の当たりにすればするほど、米倉の胸にはどういうわけか悲しい気持ちが広がっていった。
 自分にはその島で何ができるだろうか…。思いを巡らすなかで、米倉は気づいた。自分が生まれ育った場所でもないのに、自分が何かしようというのもおかしな話だなと。となると、自身の故郷に想いを馳せるのも自然な流れだった。そもそも、自分は鹿児島という地域に対してまだ何もやっていないではないか――。その頃を境に、米倉の意識はおろそかになっていた足元へと急激に傾いていった。
 米倉が故郷にいずれ戻ろうと考えているのは、両親と一つ屋根の下で暮らせる“当たり前の”生活を理想としているからでもある。少なくともいつでも会いに行けたり、緊急事態の時にはすぐに駆けつけられたりするような環境にはいたい。せめて両親が死ぬ前に生きてて幸せだったなと心から思えるような見送り方はしたいのだ。
「どうして知らない誰かにお金を払って自分の親の世話をお願いするのか、正直僕にはよくわからない。親からすれば安心は手に入るのかもしれないけれど、本当に幸せなのかなって疑いたくなる。やっぱり何よりも安心するひと時は、家族と一緒にいる時間の中にあってほしい。難しいことはわかっているし、ただの理想論かもしれない。でも、今、手にしているたくさんの不必要なものを捨てることができれば、そういう生活もできなくはないはず――。願いにも似たそんな思いがあるんです」
 高校を卒業して以来、両親を含めた家族とは疎遠になっていた過去への反省や償いの気持ちも“願い”をかき立てる。
 思えば、東京にいた頃――特に美容学校に通っている頃――は、とにかく時間的にも精神的にもゆとりがなかった。もっとも忙しかった時期に至っては、一日の睡眠時間は4時間弱。放課後に行われる課外授業にも毎日出席していたため、朝8時から夜8時までの丸半日を学校で過ごした後は、バイト先の飲食店にて22時~明朝5時の深夜労働が待っている。仮眠すいみんをとれたのは、学校から帰宅した後の1時間半と、登校前の2時間だけ。
 アルバイトでひと月に稼いでいたのは平均10数万。目的は、生活費と写真につぎこむ金を稼ぐことだった。さらに、美容師時代も手取り16万の月給のうち家賃と生活費を除いた10万を、将来の海外生活と写真のためにと貯金に回していた。食費を切り詰めるためにとポテトチップスをご飯にかけて食べたこともあれば、先輩がゴミ箱に捨てようとしていた賞味期限切れたてのサンドイッチをすかさずゲットしたこともある。
 目の色を変えながらぎりぎりの生活を送る中で、帰省するための飛行機代と帰省しなければ稼げるはずのバイト代を思えば帰省をためらうのも必至だった。事実、東京で過ごした5年半のうち実家で過ごしたのは3日ほどしかない。
 だが、それもこれも夢を実現するためには必要なことだと捉えていた。そんな米倉を美容師仲間は「ストイック」と評した。職場近くにあった恵比寿の家賃4万/月のアパートは風呂なしでトイレは共同。当時を知る友人と会うたび、彼の口から飛び出す「おまえん家、ひどかったよな(笑)」との話題はもはや語り草となりつつある。
 ともあれ、せわしなく過ぎてゆく日々の中で、家族や友人のことを気にかけるゆとりや暇は無に等しかった。父親が会いに来ても、待ち合わせた駅で食事だけ一緒に摂ってお別れというすげない態度をとったこともある。だが、当の米倉にその自覚はない。後年、親戚から「東京から帰ってきた後、2、3年、お父さん落ちこんでたよ」と聞いて初めて自覚が芽生えた。と同時に、大切にしなきゃいけないものまで犠牲にしちゃだめだと、目が覚めた。
「当時は自分にとっての“最低限”がキープできていなかった。「夢を追って上京して仕事をやっているのだから仕方ない」と自分に言い聞かせていたけど、行き過ぎていたんじゃないかなとも思うんです」

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