#86 百姓 大内 文雄さん

86 大内文雄さん

「根無し草的な生き方があってもいいと思うんです」

1956年生。福島県出身、山形県白鷹町在住。20歳の時に参加した全国愛農会 ※1の愛農大学講座の受講をきっかけに、有機農業で生きることを決意。その後、有機農家のもとでの研修やアルバイト、インドでの有機農業実践活動などを経て、89年、家族で白鷹町に移住。以来、平飼い養鶏のほか、米、野菜を完全無農薬・無化学肥料で栽培。06年に発足したしらたかノラの会で生産、加工、販売を手がけるほか、おかえりなさいコンサート ※2 の実行委員も務めている。

記事公開:2015-03-08

 

※1 全国愛農会:1945年、小谷純一が立ち上げた、有機農業に真剣に取り組む農家などの全国組織。

※2 おかえりなさいコンサート:第一回は、障がいを持つ娘の母である工藤浩子が自宅で開いた「薫風(かぜ)の家」のオープニングイベントとして92年に開かれた。その後、毎年1度のペースで開かれ、2014年5月には第23回が開催。途中からは、場所が許す限り、バザー出店に来る福祉施設の人たちも一緒にコンサートを楽しめるような会場レイアウトを設定するようになる。特別ゲストのほか、時代劇を演じるこぶし一座や障がい者支援施設・白鷹陽光学園の利用者&職員、アマチュアバンドなどが出演。

 

20歳のある夜
 時は1977年の冬。2月の下旬だったろうか。断片的な記憶しか残っていない20歳のあの夜のことは、今でも憶えている。
 その日、日付が変わる頃に寿司屋のアルバイトを終えた大内は、ヤクザ臭のする同僚の男と酒を飲んでいた。居酒屋に入って以降の記憶を辿ることはできない。のちにパトカーの中で風船を膨らまさせられていたというワンシーンは残っているが、それもうっすらと憶えている程度でしかない。
 福島は二本松にある実家から車で通勤していた大内。どうやら酔っ払ったまま車で家に帰る途中、道を外し、雪が30~40cm積もる田んぼの中に突っ込んでいったらしい。田舎の未舗装の砂利道にはガードレールがない。横転までは至らず外傷を負うことはなかったこともあり、大内は事故に気づかないまま車の中で眠りこけていた。通行車も無に等しい真夜中の出来事である。執拗に犬が吠えるのを不審に思い、外に出てきた近所の住人が警察に通報してくれたと人づてに聞いた。
 2月の東北である。夜の冷え込みは厳しい。どのくらい車の中にいたかは定かでないが、もし気づかれないまま朝を迎えていれば凍死していた可能性もゼロではない。パトカーで帰宅した後、父親が風呂に入れてくれたシーンだけはなぜか憶えている――。
 後から人に聞いた話を手がかりに、大内はその夜の自身の行動をどうにか繋ぎ合わせることができた。思えば、生活のリズムが狂わされていたことが原因としてあったろう。仕事はおおむね週に6日、朝の10時から夜の12時、1時まで。家には寝に帰るだけというような生活が続いていた。
 しかし、すべては後の祭りである。飲酒運転による事故で免許は取り消し。田舎では車なしに生活を組み立てることは極めて困難である。車に乗れないとなれば、アルバイトにも行けない。親心で、本格的に東京で寿司職人の修行をしたらどうかと勧めてくれる人もいた。そうした状況がかえって、自分を見つめ直す機会を大内にもたらした。
 そんな折、ふいに、北海道の広大な大地で酪農のようなことをしたいという空想が広がった。そういうところに行けば、自分をぶつけられるものがあるんじゃないか――。期待の裏には、心にわだかまる罪悪感を払拭したいとの思いがあったのかもしれない。小さい頃から百姓仕事を手伝ってきたこともあり、農業は身近な存在だったこともあるのかもしれない。
 ともあれ、大内は15歳離れた兄に相談を持ちかけた。兄は家業である農業を継ぎ、農家となっていた。愛農会の古いメンバーであり、愛農会の影響を受けていた兄は「とりあえず会が主催する2週間の愛農大学講座に参加してみたらどうだ」と大内に勧めた。
 仕事を辞め、手持ち無沙汰だった大内は参加を即決。事故からはまだ2週間ほどしか経っていない頃のことだった。
「タイミングとしてはすごく良かったんです。もう少し間が空いちゃうと、またちょっと違っていたかもしれませんから」

生き方を考え始めて
 寿司屋でアルバイトを始める前、大内はインフラ関連の会社で1年間サラリーマンを経験している。サラリーマンとはいえ、入社後1ヶ月間の研修期間を除いては、山奥で10名ほどの社員と飯場暮らしを送るという一風変わったものである。
 仕事を覚えるのに懸命になっていたこともあり、当初は辞めるつもりなど毛頭なかった。骨のあるタイプの飯場の所長は厳しかったものの、彼がいない土日は羽を伸ばすことができた。それなりに楽しく過ごせる日々の中で、まずは3年くらい勤めるのかなと漠然と考える程度だった。
 だが、1年目の秋頃から徐々に気持ちが変わっていく。
 きっかけのひとつは、当時人気を博していたTVドラマ『俺たちの旅』※ だった。主人公扮する中村雅俊が仲間たちと自由な人生を切り拓いていく姿には、当時の青年たちと同様、憧れをかきたてられた。また、10代後半で50カ国にわたる世界放浪の旅をし、21歳でサハラ砂漠横断に挑戦した上温湯隆の著書『サハラに死す』もインパクトがあった。同世代の人間の「すごい生き方」に、19歳の大内は触発されずにはいられなかった。
 中村や上温湯の生き方は、憧れをもたらすと同時に「おまえはどうなのか?」という問いを突きつけてきた。結果、大内は遅まきながら自分の人生について考え始めることとなる。高校まで野球に熱中していた大内にとっては、人生で初めて訪れる時間だった。
 サラリーマンが合わないとつくづく感じていたというのもある。上司に自分の将来を重ねたところで、反面教師にしかならないのだ。出世コースを歩いている人たちはどこかへつらっているように感じれば、そこから漏れた人たちは陰で会社の悪口や愚痴をこぼしているばかり。
 転じて20~30年後の自分を考えれば、もう少し違う生き方をしたい。かといって、何をしたらいいかはわからない。でも、少なくとも今の会社で働いているよりは、辞めてしまった方が「何かに挑戦する生き方や自分」に出逢うチャンスは広がるかもしれない――。
 結局、姉の結婚式に出席するために実家へと戻る機会に乗じて、大内は所長に辞職の意思を伝え、飯場を去った。就職後ちょうど1年が経った76年3月のこと。将来への不安などはかけらもなかった。
 無職になった大内は、式後も実家に居座り続けた。訝しんだ家族に訳を話すと驚かれはしたものの、咎められはしなかった。
 大内の心を占めていたのは、ドラマの中の中村雅俊であり、上温湯隆だった。まずは日本一周して、それから世界一周だ――。想像は駆け巡った。
 家の仕事が空いた時間を利用して、ほんの軽い気持ちで夢への第一歩を踏み出した。
 二本松を出発点に、会津から新潟を抜け、北陸地方を目指す「鈍行列車による金をかけない旅行」である。2週間ほどかけて、能登半島、佐渡島を一周。主たる移動手段は鉄道だったが、鉄道がないところは野宿しながら徒歩でまわった。駅前のベンチで寝ていたところ、警官に職務質問されたこともある。道中、野球部時代の古傷が痛み出し、やむなくバスに変更したこともある。
 自炊出来るような道具は一切持って行かなかったため、食事はすべて食堂などでの外食で賄った。そもそも所持金が少なく、腹いっぱい食う余裕などない。さりとて金の減り具合は想像以上。ともかく金がないことには旅はできない――。あくまでも肩慣らしのつもりだったが、大内は自身の認識の甘さを痛感。食べることは大事だという実感も旅の土産となった。
 現実の厳しさに触れ、働いて金を貯めて出直そうと帰宅した大内は、アルバイトを探すために職安に出かけた。そのとき見つかったのが寿司屋の仕事である。相談を持ちかけた職安のスタッフは偶然にも寿司屋の馴染み客。そのまま寿司屋へと連れて行かれるという思わぬ展開に戸惑いを覚えはした。しかし、やったことはないけれども、まず金を稼がないことには始まらないと、挑戦してみることにしたのである。
 事故を起こしたのはその半年後だった。会社を辞めた頃の気勢はどこへやら。旅に挑戦するための手段でしかなかったはずのアルバイトはいつしか、日常の中に埋没した存在へ。とともに、挑戦意欲も憧れも風化してしまっていた。
「後々振り返れば、わざわい転じて福となす、事故を起こしたことがかえって良かったんですけどね」

※ 75年秋から放送が始まったTVドラマ。

根なし草のように
 ともあれ、愛農会と関わった2週間は大内の人生の分岐点となった。サラリーマン時代には出逢えなかった類の人々との出逢いは、大内を「有機農業」という世界へと誘い込んだのである。
 短期講習の講師陣には、全国から集まった有機農業界の先駆者たる面々が名を連ねていた。原因不明の病気に罹る患者の多さを疑問視し、レイチェル・カーソンより前から農薬の害を指摘していた奈良県の医師・梁瀬義亮(やなせぎりょう)。工業社会で生きてきた立場から見た工業社会の脆さを指摘、「使い捨て時代を考える会」の創設者の一人であり、有機農業運動にも深く関わった槌田劭(つちだたかし)。そして、当初は農薬や化学肥料を「農家の救世主」と礼賛していたが、梁瀬との出逢いを機に、自身の過ちを認め、有機農業の方へと180度急旋回した愛農会の創設者・小谷純一……。入れかわり立ちかわり壇上に現れた、20名ほどの講師らが展開する話に、大内の心はがっちりと掴まれていた。
「彼らの話を聞くうち、酪農より有機農業だな、と直感的に思ったのです」
 北海道の広大な大地はすっかり頭から消えた。まずは自分で食べ物を作れるようになりたい。有機農業で生きていきたい――。思い立ったが吉日。大内は講座期間中に「有機農業を教われる農家を紹介してもらえないか」と講師に依頼した。
 講座が終わったのは3月後半。4月からはさっそく広島の田辺省三のところで半年間の農業研修を始めた。その後は時季に合わせて高知、熊本の先輩有機農家を訪問。彼らのもとで働きながら有機農業を学んだ。翌年には帰郷し、福島県の有機農家の先駆け的存在として知られる村上周平のもとで研修を始める。
 当初、大内は「2年間の研修後に独立」という大まかな青写真を描いていたが、研修2年目の秋の終わり頃、愛農会の本部より「うちで働かないか」との声がかかる。折しも、組織が変わり目を迎え、人手が足りなくなっていた時期だった。
 大内はその話を受けた。研修から機関誌の編集に至るまで、時には経理の補助的な事務仕事をこなす日々が始まった。だが、「百姓で身を立てていく」ことを目指している身である。仕事にやりがいはあったが、いつからか土に根ざして生きたいという気持ちがわき上がってきた。(この仕事は)2年半で区切りをつけよう――。そう思い定めたとき、以前世話になった村上周平から誘いがかかったのである。
「うちでもうちょっと手伝わないか。月給は払うから」
 彼のもとで働きながら、独立計画を立てればいいだろう。そう考えた大内は首を縦に振った。
 当時は、のちに妻となる朋子との結婚話も進行中だった。ちなみに、彼女とは愛農会を通じてつながった。大内が会で勤務していた時、当時インドやネパールを旅していた彼女に報告記の執筆を依頼したのが出逢いのきっかけである。「ピンとくる」存在だった彼女と初めて会ったのは、愛農会を辞めて福島へと戻る途中のこと。たまたま神奈川は厚木に住んでいた兄の家に寄った際、彼女が隣の市のN荘というアパートに住所があることを思い出した大内。電話帳で調べてみると、どうやら市内には4軒のN荘があるらしい。一つずつ当たってみよう、とかけた電話は見事に1棟目でビンゴ、そのうえ彼女は在宅中。偶然が重なった末、電話越しに会う約束をした、というのが二人の馴れ初めである。

 それはさておき、結婚して、家族で農業を営んでいこう。将来を思い描いていた大内に、またもや愛農会から声がかかる。どうやら、インドのアラハバード農科大学で農業を教えていた牧野一穂から会に「インドの農村の指導者たちに有機農業を広めたいので、誰か派遣してくれないか」と要請があったらしい。会の方で実績のある農家たちに当たってみるも、すでに独立し経営を担っている農家は長期間家を空けることなどまずできない。そこで大内に白羽の矢が立てられたのだ。
「フラフラして、まだ落ち着いていない私に話が来たんです(笑)」
 これまで自分の農業をやってきた経験はないし、彼女との結婚も考えている――。ためらいはあった。だが結局、大内は結婚してから1ヶ月後に妻とインドへ出発。27歳の夏だった。
 インドでは、アラハバード大学構内にある10aほどの農地が“モデル農場”として大内に与えられた。持参した日本の野菜をデモンストレーションで作ってみたり、それを現地の野菜と比べてみたり。その過程では、一筋縄ではいかないところは多々あった。山に行けば落ち葉や腐葉土が手に入る日本とは異なり、そもそも有機物自体が少ない。草マルチを敷いても、家畜のエサとして地元民に持って行かれたこともある。日本との気候や土壌、環境の歴然たる違いを肌身で感じる機会となった。
 ともあれ、色々なことを経験できた2年間だった。しかし、二度目の雨季を迎えた頃、大内は肝炎を患う。黄疸が出たことを発端に、食欲は一切なくなり、気力も出てこなくなった。床に臥す日々が2ヶ月続いた。
「その時は、妻が作ってくれた豆腐と、近くの店にあった素麺のような麺しか食べれなかったんです。だから、その二つを食べて生き延びて帰ってきた感じですよね(笑)」
 症状が癒えぬまま帰国した大内だったが、東京の東邦病院に入院後、1ヶ月ほどで病気は快方に向かっていった。
 退院後は、妻の故郷である伊豆諸島内の式根島にて静養することになった。静養中、「静岡の伊東市にある保養所が無農薬で野菜を作る人を探している」という話を持ってきてくれたのは愛農会関係の友人だった。自身の病気により健康に目が向いたこと、病み上がりの身体で百姓をするのは体力的に難しいことなどあって、大内は話に乗ることにした。
 そこで働くこと3年半近く。決して不満があったわけではない。むしろ正社員の身として安定を保証されながら、やりたいことをやれる環境にはある面で満足だった。年2回のボーナス支給と待遇もよく、それなりに貯蓄もできた。
 しかし、本来、自身は百姓として生きることを目指していたはず。思えば、夢を持ち越しにすること約8年。機は熟した、さぁ百姓をやるぞ――。辞めたい気持ちは山々だったが、院長らに世話になったことを思えば、「辞める」とはなかなか言い出せない。二の足を踏みつづけた大内が辞表を出したのは、院長が亡くなってからだった。
 その後、東京は有楽町にある新規就農ガイドセンターを訪ねて、相談を持ちかけた。帰り際、ふと目に留まったのが白鷹町のパンフレット。「有機農業ができる」との記載もあり、大内の心はとたんに傾いていく。戻って職員に尋ねると、「まずは行ってみたらいいよ」との返答が。
 そして、5月の中頃。大内はひとりで白鷹町を訪れた。
 山形市から白鷹町に車を走らせる途中、丘陵地にある山形県県民の森を通り抜けて、いざ白鷹町に入らんとするときのことである。遠くに連なる朝日連峰の峰々が、ふいに開けた視界に飛び込んできた。晴天のもと、一望する朝日連峰は壮観だった。おまけに自然豊かな風土で雰囲気もいい。案内してくれた人からは、人情味を感じられた。2000m級の山を近くに望める景観は、故郷の風景と重なるところもあった。とにもかくにも、第一印象は最高だった。
 一度目の訪町で、「白鷹町への移住」はもはや決定事項となっていた。その日のうちに、農業委員会の職員から紹介された空き家に住むという口約束も締結。妻への相談も一切なし、完全なる独断だった。

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