#86 百姓 大内 文雄さん


純粋な世界で
 それから1月半後の89年7月1日。大内は妻と息子とともに白鷹町民になった。引越しに際し、大内はそばの種のほか、ルバーブの苗やヤーコンの種なども持参。目指すは、できる限り小さい面積で生活を成り立たせていく「五反百姓」。それゆえ、畑さえ確保できれば、すぐに移植できるものがほとんどだった。
 時期が時期だったため、米作りは来年までおあずけとなる。借りた畑で行うそばの種まきが百姓としての最初の仕事になった。ちなみに、そばを収穫した秋頃から、新米ができる翌年の秋までの1年間。大内家の食卓には毎朝、そばクレープとルバーブのジャムが並んでいた。
 晴れて田んぼも借りることができた2年目からは、米作りを開始。自分ひとりで作るのは初めてなのに加えて、偶然にもその年は雨が少ないときた。もとより水の確保が困難な場所である。いかに田んぼに水をひくのかが大変かを身をもって感じた大内は、「水田」たる所以を思い知ることとなる。
 さらに、有機農業を試みようとする身に思いもよらぬ向かい風が吹きつけてきた。地域の農民たちや田んぼの持ち主などから一斉反発されたのだ。田んぼの持ち主とは揉めてしまい、「そうやってあれこれ口出しをされるなら、小作料を払って田んぼをお返しします」と言うところまでいった。何とか収拾がついたのは、農業委員会の会長が仲を取り持ってくれたおかげだった。
 “異端”の新参者を心配する声もあった。親切な農家から「絶対農薬とかを使った方がいい」と言われたことは一度や二度ではない。気にかけてくれることはありがたかったが、それこそ全国で有機農業を頑張っている人たちを傍で見てきた身に彼らの助言は響こうはずもない。
「私たちは、農薬や化学肥料は土や微生物に悪いから使用を控えるわけです。でも、それを否定する立場の人たちは、まったく逆の発想をするんですよね。使わないと田んぼが草だらけになって、荒らされてしまうと。だから、地域の人たちは「大内みたいなのに作らせていたら、田畑が荒れて大変なことになるぞ」という見方をしていたんじゃないでしょうか」
 当初は自身の考えを逐一伝えていた大内だったが、認識の隔たりを幾度となく感じるうち、いくら言葉で説明したところで埒が明かないことに気づいてゆく。ならば、意地でも有機栽培でやってみせる。やれるところをやってみせるしかない――。水も少なく、ひいき目に見ても「恵まれた生育環境」とは言えなかった。しかし、何といっても意地があるのだ。「ほれみたことか」と言われる悔しさを思えば、草取りにだって手は抜けない。大内は、内心息巻きながら懸命に仕事に取り組んだ。
 それが功を奏したのか、結果的には7~8俵 / 反の収量を確保することができた。とともに、地域住民たちに「有機農業でもやれる」という認知は広まっていったのである。
「百姓はやってみせるのが一番。美辞麗句を何時間並べ立てるよりもはるかに説得力があることを身に沁みて感じました。実際、それ以降、栽培方法について口を出されることはまったくなくなりましたから」
 身を置く環境によって世界の見え方は変わってくる。愛農会の短期講習に参加して以来10年以上、有機農業が当たり前に行われている世界で過ごしてきた大内にとって、有機農業は「世間一般でも認知度は高いもの」だった。それゆえ、白鷹町で「有機農業が市民権すら得られないような世界」に身を置いてからは認識を改めざるを得なかった。
「有機農業」の定義には曖昧な部分が存在するが、大内にとっての「有機農業」とは、農薬や化学肥料を一切使うことのない農業である。事実、これまで大内は一度たりとも農薬や化学肥料を使ったことがないどころか、散布の仕方すら知らない。
「使いたいと思ったこともないし、そもそもそれらは自分の世界の中に存在しないものだと思ってる。かつて研修で回った愛農会関係の先輩農家たちも、揃ってそういうものがない“純粋な”世界で生きていましたから。人が使うことまでは否定しませんけどね」

広がった世界
 百姓として生きる上で、大内は「3年後には百姓だけで生活できるようになりたい」との目標を描いていた。結果としても、3年目にはそれなりの数の顧客がつくとともに、なんとか百姓一本でやっていけそうな気配を感じるところまで漕ぎつけた大内だったが、それまでは生活費を稼ぐためにも、何でもやろうとの気構えを持っていた。
 その時期に引き受けた仕事のひとつが、雪囲いや雪下ろしである。ちなみに、今でも独居老人などからは毎年雪下ろしや雪囲いを頼まれている。
「雪囲いってなかなかおもしろいんです。縄の結び方とかいろんな技術を学べるし、そもそも縄自体がすばらしい。そこで学んだことは農業にも役立っていますしね。雪は大変な面もあるけど、雪が降らないところではやらないことをやれるチャンスはありますから」
 週に一度を2年間。建物を建てるのに必要な基礎知識を学ぶために長井市の職業訓練校に通っていた時期もある。奇しくも、当校で何十年ぶりに開催された講座だった。ノラの会のメンバーの一人に、大工の父親がいたことも幸いだった。彼にも教えを請いながら、大内は少しずつ技術を身につけていった。
 その背後には、百姓として「100のことができるようになりたい」という理想があった。基本となる衣食住に関して、〈プロに頼んだ方がいいところは頼むけれど、自分でやれることはやる〉という姿勢は変えなかった。実際、食料を自給するのはさることながら、鶏小屋を自分で建てるほか、築100年以上の自宅の風呂や台所などを修築してきた。
「白鷹に来て、色んなことを勉強できたし、出逢った人たちから色んなことを教わることができました」
 新聞配達もその時期に引き受けた仕事だった。息子が通う保育園を通じて、新聞屋を始めたばかりの人とたまたま知り合ったのだ。結果、新聞配達を通して町内の(東側に限って)地理に詳しくなったり、「おかえりなさいコンサート」の発起人とも出逢うことができたりと世界は広がった。
 92年より毎年開催されている当イベントに、大内は第一回より実行委員会メンバーとして関わっている。発起人から「手伝ってくれ」と声をかけられたことがきっかけだった。
 昨年の5月に23回を数えた当イベントだが、過去には正念場もあった。10回目の開催前後あたりだったろうか。無理をしながら続けているところにマンネリ化の波も相まって、メンバーから「そろそろ辞めてもいいんじゃないか」「2年に一度でいいんじゃないか」という声がポツポツ出始めていた。実際、開催日にはボランティアスタッフ、出演者を合わせて100人分以上の昼食を自分たちで用意したりもする。潤沢な運営資金があるわけでもない。負担に感じる実行委員会のメンバーが出てきたのも事実である。しかし、一方で、たとえ一人になってもやり続けたいという強い意志を表明するメンバーもいた。
「その頃から「自分も楽しんでやれるイベントにしよう」と舵を切ってきたおかげか、今ではコンサート自体を楽しんでやれてるし、できる範囲で協力し合うみたいな体制もとれています。
 毎年とっているアンケートに「ほんとに来てよかった」「生きる力が湧いてきた」とかって書いてもらうとやっててよかったなと思うんです。前々から知っている曲も、コンサートで聞くことによって改めてその良さを実感できたりしますしね。ともかく1年のリフレッシュになるというか、気持ちの切り替えになる。だから、自分のためにやっているんです」  

とらわれることなく
 大内が白鷹町で過ごす日々は今年7月で27年目を迎える。つまり、人生の半分近くを白鷹町で過ごしたことになる。思い返せば、一目惚れに近い感じで移住を決めた場所である。しかしながら、これだけの期間、白鷹で暮らしていようとは思ってもみなかった。いや、あえて考えなかったという方が正確かもしれない。少なくとも、何が何でもここで骨を埋めようなどという覚悟とは無縁。別な場所とたまたま縁ができたなら……という可能性を消したこともない。
「とらわれたくないという気持ちはあったし、そういう生き方はしてきましたよね。そのへんは、家を背負って生まれた長男とは違うところ。彼らからすれば、フワフワした生き方に映ったり、物足りなく感じられたりするのかもしれませんけど(笑)」

 移住してから1年後に宅地と建物は買ったが、農地は長らく借地のままできた。かといって、買うのを避けていたわけでもない。もし売りたい人がいればその時考えようとは思っていた。
 実際、昨年には自宅の真裏にある畑を買い、「農業者」への仲間入りをした。もっとも、現在横浜で暮らしており、いずれ戻ってきて農業をやりたいという展望を描く息子の意思によるものである。つまるところ、大内は自らの手で自由を狭めるようなことはしたくなかったのだ。
「今、みんな背負っちゃうというか、自ら負担を吸い寄せて大変な思いをしているところってあると思うんです。たとえば、最低何反歩は農地を手に入れなくちゃと思えば窮屈じゃないですか。その時々の状況に合わせて考えればいい、臨機応変に対応すればいいと思うんです。
 おそらく、私は元々そういうタイプの人間だったんでしょうね。まぁでも、キリスト教に出逢ったことは関係しているかも。信仰に沿えば「神様の命じたところに行く」ことが良いとされているし、旧約聖書の登場人物も、遠くに追いやられたりなど、流転的な人生を送るパターンが多いですし。あとはやっぱり、小谷さんなどからの影響はあるでしょうね」
 愛農会の短期講習で感じた直感とは、後々振り返れば、彼らの生き方や話す言葉の力強さなどに自然と反応した心の表れだったように思えてくる。目の前には、社会が間違っていると思うのならば、反旗を翻してでも自分の生き方を通したり意見を主張したりする人たちがいた。
 こんなにも生き生きと自分の人生を生きている人がいるんだ――。はずむ心は、遠くにうすぼんやり見える程度だった理想像にはっきりとした輪郭を与え、そこに通ずる道も浮かび上がらせた。
 同時に、旅への想いは吹き飛んだ。鈍行列車の旅でも、短いながらに(旅では)達成感しか得られないという限界を何となく感じ取っていた。結局、旅は旅でしかない。彼らが歩んでいるような人生の魅力とは比べるまでもなかった。
「基本的には有機農業って生き方だなと、自分の生き方を追求する人たちがやっているものだなと思ったのです。少なくとも、誰からも認められない時期に取り組んできた人たちはそうでしょう。
 彼らのように突き抜けてきた人たちは生き方や生き様を野菜などの食べ物に託し、映しこんでいた。だからこそ語る言葉にも力があり、そういったものも含めて消費者に作物を買ってもらっていたんだと思うんです。
 小谷さんを例にとれば、普通の人なら、農薬や化学肥料を礼賛し、組織のトップとして他人にも使用を奨励している時に、梁瀬医師に出会い自身の過ちを知覚したからといって、行動を180度変えることはできないと思うんです。今までの自分の人生を否定することになるし、当惑する関係者もたくさんいたはず。にもかかわらず、自分の過去にも縛られない柔軟性みたいなものを持っていた小谷さんはすごいなと思うんです」
 かつて研修先として世話になった村上周平や田辺省三も小谷の影響を受けた一人だった。
「難しいでしょうけど、私もそういう風にふるまえるような自分でありたいなと。とらわれたくないという考えの中には、そんな思いも息づいているのかもしれませんね」

定められていた道
 思えば、サラリーマンを辞めた頃から、考えもしなかった方へと人生は展開してきた。
「失敗から芽が出てくるというんでしょうか。事故がなければ、日常に追われるがままに、ズルズルとフリーター人生を続けていたかもしれない。だとすれば、事故が会社を辞めた時の気持ち、いわば自身の原点に立ち返らせてくれたのかもしれない……。そう考えると、事故が私を農業の道へとグッと引っ張り込んだのかなと思うんです」
 さらに思いを致せば、高校3年の2月頃、内定をもらっていた東京都の水道局から突然採用延期の通知が届いたところから、運命の歯車が回り始めていたような気もしてくる。そこで就職しないわけにはいかないと慌てた大内が、就職先を吟味する時間もほとんど確保できないままに滑り込みで入社を決めたのが、1年間勤めた会社だったのだ。
「もしそのまま都庁に入っていれば、また人生も違っていたのかもしれない。今も公務員を続けていたのかもしれない。遅かれ早かれ会社は辞めただろうけど、姉の結婚式で実家に帰るという偶然がなければズルズル働き続けていたかもしれない……。だから不思議でおもしろいですよね、人生って」
 24歳のとき、青写真通りに村上周平のもとから巣立ち、百姓として独立することも可能だった。しかし、10年近く漂った後に独立したあたりが、“根なし草”と自称する所以である。
「すべて、自分から持ちかけて行ったんじゃなくて、向こうから話が来たような感じなんです。愛農会本部、村上さんからは「手伝ってくれ」と頼まれて、再び愛農会からインドの話が来て、帰国後は保養所への就職の話をもらって、白鷹町に来てからは新聞配達、雪囲いを頼まれて……。私は、来た話に応じただけなんですよね」
 大内にとって「自分の人生を変えてくれ、生きがいを提供してくれた」愛農会はいわば人生の起点である。思い入れの深い場所であるがゆえに、そこで困っているのなら…と自然と心は動く。活動の中心地である会の本部にいたら、色んな人たちとも出逢えるだろうと興味もそそられる――。拒む理由は見つからなかった。
 インドに行く際にも不安はあった。果たして研修生の立場しか経験のない自分にやれるのかと。だが、大内は思い直す。何の役にも立たないかもしれないけれど、少なくとも自分のためにはなるだろう。人生においてインドで何かをやれるチャンスもそうないだろう。もしかしたら、自分が橋渡し役となり、新たな交流を生むことができるかもしれない――。
「実際、行ったり参加したりすればその場所なりのおもしろさや楽しさを味わえたし、勉強にもなりました。いろんな経験をさせてもらえたことに感謝の気持ちもあります。そういう根無し草的な生き方があってもいいと思うし、こんな感じで一生を終えても特に悔いはないような気もする。
 そうはいっても、「農業を愛する」といった自身の根幹的なところはまったく変わっていないとも思うんです。極端な話、福祉の仕事をしたとしても、根本的にはつながっているような気もするし、そういう軸さえしっかりしてればいいのかなと。まぁ、それもこれもやっぱり、私の人生の歩む方向だったんでしょう」
 実は、白鷹に移住してから2、3年が経った頃、愛農高校から「職員として来てくれ」という話が大内のもとに舞い込んでいた。妻に反対され行動にこそ移さなかったが、まだ来て間もなかったこともあり、大内自身はおおいに乗り気だった。だが、それ以後は白鷹を離れようと思ったことは一度もないという。
「よっぽどのことがない限りは、このまま白鷹で暮らしていくんじゃないかな。もしここ以上に私たちを求めている場所があれば、また胸を躍らせることがあるかもしれない。(笑)わからないけれど、ここで百姓として生きていくことが自分が進んでいく道だろうなという気はしています。ともかく、気持ちだけは若くいたいですよね」

<編集後記>
生き物の中で人間がもっとも不得手としているのは、風まかせに生きることなのかもしれない。

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