#80 俳優 / 研修講師 夢実子さん


 だけど、それが若い頃はわからなかった。たぶん運はいい方だったけれど、運がいいかどうかも考えずに好きなことをやっていましたから。
 後になって考えてみると、ご縁をおろそかにしたり、当然あるものとして感謝していなかったりしたことがうまくいかなかった原因だったなと、50歳くらいになってようやく気づき始めたんです。たとえば、「誰か人いない?」という電話がかかってきた時、昔はめんどくさいな~、なんで私に訊くの?と思ったこともありました。でも、今になってみれば、もったいないことをしてたなって思うんです。「私でよろしければ、やらせてください」と言えばよかったなって。
 だから今は、そういうご縁を大切にしていこうと素直に思えています。もちろんできないこともあるので、まるっきり来るもの拒まずというわけにはいかないけれど、「ありがたくやらせて頂こう」という気持ちになる。そして、そこでベストを尽くすことで自分を超えられる。それがどう次につながっていくかもおもしろいところだと思います。
 とはいえ、結果が見えない状態で行動を起こすのは難しいもの。でも、やってみて始めて次が見えてくるのであって、やらないと次は見えてこない。最近は、決めると何かが変わり始めるってこと、決めることは大変で怖いんだけど、おもしろいことも起こるってことが体感としてわかり始めたかな。
 だから、変な言い方ですけど、今、この瞬間、職業を変えることもできるんですよね。ひょっとしたら、ある出逢いがきっかけで、海外で居酒屋のオーナーになっているかもしれない。目の前に現れた分かれ道のどちらに進んでもいいと思うんです。なぜなら、自分の人生の台本は自分で創るものだから」
 2年ほど前のことである。行きたいセミナーがあったが、自身の収入に見合わない高額な費用がかかるため夢実子は申し込むことをためらっていた。だが、しばらく悩んだのち、分割払いにして申し込むことを「決めた」ことがある。
「そしたら、決めた途端に語り劇の仕事が二本連続で入ってきたんです。もちろんその因果関係は定かではないし、仕事ではなく人との出逢いという形でおもしろいことが起きるのかもしれない。いずれにしても、そういう経験をすると、より自身の考えを信じられるようになっていく。今は、「決断する」ことを楽しんでいるところですね」
 『声と言葉のレッスン』開催2シーズン目を迎えた2014年。最低6回は継続してレッスンを受講することを条件に募集をかけたのも、そういった自身の経験に由来するものでもあった。
「過去には結果を気にして、行動に移せない自分がいました。仕事がない頃には、このままでいいんだろうか、この先ずっと独り身なんだろうか、老後はどうしようか…と色々悩んですごく落ち込むこともありました。でも、そうやって悩んだりすること自体、時間や余裕があるからできることだから、きっと幸せなことなんですよね。実際、今忙しい状態を体験してみて、忙しいと悩んでいるヒマがないってことに気づきましたから。
 やっぱり、「やることがある=生きる」だと思うんです。人間、動かないとだんだんうつっぽくなるし、よけいなことも考えてしまう。人間は行動する動物であって、きっと行動している中で何かが見えてくる。そして、それ自体が表現であり、人は皆、表現者なんだろうなと。
 カッコつけて言うわけでもないけれど、映画を観ることだって、草を取ることだって、空や海を見ることだって、ぜんぶお芝居や講師をするための血となり肉となっています。それらを含めた「生きる」こと、つまり自分の魂のようなものを輝かせることを表現へと昇華させているんです。そんな私の場合、「人生=お芝居」なんだろうなと。もっとも近い表現で言えば、生き様を仕事にしているのかもしれません。
 実際、指導者としての仕事においても、多くの人が汎用できるようなテクニックを駆使しているわけじゃない。私しかできない方法で相手と関わっているんですよね」
 2014年9月には、劇作家・かめおかゆみこのバックアップのもと、東京にて「声と言葉のレッスン」を初開催。彼女から「短時間で相手の声の質を聴き分ける」という指導者の才能を見出されたことがきっかけだった。
「おこがましいけれど、指導者として関わる講座やレッスンを通して人の心の琴線に触れ、その人を輝かせることができる、元気づけられるポジションだと思っています。最近はその手応えも感じられています。人が変わる瞬間に立ち会えるというのはとっても素晴らしいことであり、幸せなことでもありますよね」

「成功」を目指して
「役者にこだわってきた私にとって、ひとり芝居は醍醐味なんですよ。東京での役者経験を山形で形にしたいという思いがあったんですよね」
「山形でひとり芝居をやろう」と思い描いていた夢実子が、女医・志田周子の人物像に迫った一本の広報誌記事と出逢ったのは2000年9月のことだ。記事を読み、「彼女を舞台の上で光らせよう」と思い立つやいなや、たちどころに行動を起こした夢実子の視界に入っていたのは、実現へと向かう一本道のみ。大井沢で暮らす、周子の親類の下へ挨拶に訪れた際には、相手の意向を確かめる前に、「(ひとり芝居を)やらせていただきます」と口走っていた。
 その後、ビジョンが具現化した01年から、主に山形でひとり芝居「真知子 ~ある女医の物語~」を演じるようになって13年が経つ。2014年は、語り劇に形を変えた当作品を東京や横浜でも演じる機会を得た。劇場はもとより、カフェからお茶の間まで、演じる場所は選ばないこともあり、活動の場に広がりが出てきた。
「それで思ったんです、これから私は、過去に生きていた、あるいは今も生き続けている「山形の女性」を物語っていくんだろうなって。世間に名は知られずとも自身が心惹かれたのであれば、語り劇を通してそこに光を当てて表に出し、舞台の上で生き返らせたいなって」
 先だって、夢実子は語り劇の主催者の一人から、「こういうことは、ぜひ続けるべきだ」と賞賛された。観客からは、「言葉の力を感じました」という感想をもらった。
 現在、夢実子は、5、6年前から構想を温めていた「中川イセ物語(仮題)」を制作中である。「真知子」に続く語り劇として、『山形の女を物語る!シリーズ  第二弾』と名を冠している。中川イセといえば、網走市にて28年間女性議員を務めた「北海道網走開拓の母」との異名を持つ天童市出身の女性(1901-2006)だ。つい先日には、脚本家と連れ立って取材のため網走へと足を運び、ゆかりのある人物や場所を訪ねてまわった。
「ただ、そんなのも勝手に意味づけているだけなのかもしれません。そもそもあまり需要がない東北で未だにこの仕事を続けている意味って何なんだろう…とふと考えることもあります」
 かつて東京にいた頃は、タレント事務所に所属し、アルバイトをしながら、昼ドラやNHKなどのテレビ番組に出演。藤岡琢也や浅利香津代の付き人をしたこともある。いずれも安定した収入は確保できたが、沸き起こる役者への想いは断ちがたく、原点回帰。再びアルバイトをしながらの役者生活に戻った後は、小劇場系の舞台や映画に出演、声優の経験もした。
 Uターン後。ここで形にできなければ、これまで役者として積み上げてきた経験や年月が水泡に帰してしまう…。20年間プロにこだわってきたというプライド、今更それを諦める無念さ、そしてやっていけるという根拠のない自信の前では、勝算が立たないことなどちっぽけな問題にすぎなかった。
 だが、向こう見ずに突入した“茨の道”は険しかった。土壌が育っていないがゆえに、公演内容に見合うだけの評価、つまり正当報酬が得られないという現実は、夢実子の低い自己肯定感を刺激してやまなかった。それにつられるように、心はへこたれ、荒廃の一途をたどってゆく。芸事への理解がない周囲に苛立ちを覚え、口からはつい愚痴がこぼれる。まっとうな評価を得られやすい東京に帰ろうかと考えたことは一度や二度ではない。東京を知ればこそ際立ってくる違いは、夢実子のネガティブ思考に拍車をかけた。
「でも、まったく依頼が来ない時期もあることを思えば、(報酬が)安かろうと高かろうと、声をかけてもらえることがどれだけありがたいかということにも、最近気づいたんです」
 暗中模索の日々の中で、夢実子は世の成功者が自身の実体験を基にして書くようなノウハウ本に、現状を打破するための解を求めた。当初はそこに書かれているノウハウを実践し、効果も実感していた夢実子だが、ある時から真似をしてもうまくいかないと感じるようになる。
「その人と私は違う人間で、引っかかっているところが違うからなんですよね。だから、最終的には、自分の体験からベストだと思う方法を導き出していくしかないと思うんです」
 その後、論語と出逢ったことをきっかけに、夢実子は成功哲学の本を一挙に捨てた。「なんだ、ここに全部書いてあるじゃん!」と気づいたからだった。
 “茨”の中で様々な気づきを得てきた今、さらには同業者のかめおかから才能を見出されようやく自己肯定感を獲得しつつある今、夢実子の視界は開けている。
「過去に(演劇関連のものに限らず)セミナーやワークショップに行ったりして、必死になって何かを得ようとしていたのは、きっと「できない自分」がいたからこそ。つまり、落ちこぼれの状態から努力して這い上がったり、やる気のない状態から立ち上がる道筋を経験して知っている。そういった経験は指導する上で生かせるのかなと思うんです。
 19歳の時から何十年もこの世界にいて、変わらず厳しい生活を送っていながらも、紆余曲折ありながらも、今もって続けているわけだから、これが私の「お役目」なんだろうかと思えてくるんです。好きなことを仕事にできていて、それで喜んでくれる人もいるわけですし。自分で言うといやらしくなるかもしれないけれど、私は昔からやるべきことを知っていたのかもしれない。ただ、役者一本で食えるだけの収入がついてきていないということは、まだ学びの途中だということなんでしょう。
 最近わかってきたのは、ほんとは「失敗」ってないんじゃないかってこと。やると決めたことを途中で辞めちゃうから「失敗」になるのであって、決めたことを最後までやり抜いたら「成功」なんじゃないかなと。つまり、覚悟を決めてるってこと。たぶん何があっても、この世界に別れを告げることはないと思いますね」

 

<編集後記>
茨の道を歩いている限り、生傷は絶えないのだろうが、体内の抗原抗体反応は活性化し、自己治癒力が培われていくはずだ。その過程でいつしか備わっていく力は、自身のみならず誰かをも奮い立たせ、誰かをも救うのかもしれない。

 

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