#97 べじたぶるぱーく 代表 植田 歩さん


薄まってきた個性
 野菜に関してはこれまで無農薬栽培をつづけてきた植田だが、栽培方法を褒めたたえられたときには「農薬使ってないだけ農法です」と応じてきた。自社ホームページにも「無農薬栽培」であることは打ち出していない。むろん無農薬栽培だと寄りつく虫は格段に増えるため、旬のものや虫のつきにくい時期を選んで育てるなどの工夫は凝らしている。
「ぼくは農薬の使い方を知らないだけ、農薬を使わなくていい作物を育てているだけ。「無農薬」を掲げることによって、ハードルが高くなるのが嫌なんです。家庭菜園のイメージでやっているから、あまり手をかけずに育てたい。旬の時期に元気に育った野菜は、虫がつかなくておいしい気がしますしね」
 かくいう植田自身、20代半ば頃は「地球にやさしい」をモットーに「温暖化を止めたい」という志を持っていた。もともとジャンクフードが大好きだった植田だが、ある本を読んだことをきっかけに、食べるものを見つめ直すなど、ロハス的な生活に徐々に目覚めていったのだ。
 それゆえべじぱを立ち上げた頃は、経済的な事情も手伝って、無農薬を全面に出して野菜を売っていた。しかし朝市で売り場に立ち、消費者の反応に触れるにつれ、多少虫に喰われていても、無農薬野菜はいいものだから売れるだろうという独りよがりな思い込みは崩されていく。客から「なんぼ無農薬でもこんだけ虫喰ってるんやったら、薬を使っていてもきれいな野菜の方がいい」と言われ、ぐうの音も出なかったこともある。
「有機農業運動が活発だった頃と比べれば、農薬の有害性はかなり低くなっていたり、慣行栽培をしている農家さんもできるだけ使用量を減らせるように心を配っていたり……。むかしの自分が、なんの疑いも持たずに、無農薬栽培のほうがいいと考えていたのは、そういうことを知らなかったからなんですよね。
 市場にしても「安い買取価格が農家の生活を圧迫している」と悪者にされたりするけど、別の視点から見れば、すごく効率のいいシステムだなと気づきます。東北の農産物を大阪で食べられるなんてすごいこと。最近は、なかなか世の中ってうまくできているなと思うようになったんです」
 共産主義的にみんなで肩を組んでやっていきたい——。資本主義社会とは対極にある世界に身を置きたかったことも、植田が田舎暮らしへと向かった理由のひとつである。「物々交換が残っていることが田舎のよさだと言われたりするけど、それはそれで大変なこともある。物々交換が嫌なわけではないけれど、それですべてが回っている社会がいいとまでは思わない。物々交換も大事やなぁという気持ちを忘れずにいて、要所要所で実行できればいいのかなと」
 しかしそうした変化は植田に新たな悩みを運んできた。中和されるかのように自身の個性が薄まっていくにつれ、自分の売りがわからなくなったのだ。
「だんだん「無農薬野菜=体にいい」「無農薬野菜=おいしい」という図式は崩れ、伝え方が弱腰になってきたんです。自分の考えや意見を主張すると、それとは違う考えや意見を持っている人を暗に批判しているような気になる。無所属でいたいというか、中立国になりたいと思っているのかもしれませんね」

抜けてきた肩の力
「ただ、自分の道を信じて突き進める才能なり腕なり情熱があれば、別のやり方をしていたかもしれないな、と思うことはあります。たとえば土作りの肥料からこだわっている農家さんのなかには、土の匂いを嗅いだり、土を舐めたりする人もいるけど、ぼくにはそれができない。自身はいろんなことに興味を持つ性格なので、アーティスト的な人には憧れがあるんです。思えば、大学を中退したのも、思うようにいかない、周りについていけないという挫折感のような思いが大きかったですから」
 しかしそんな過去への負い目が好きなことをしたいという思いと掛け合わさりながら、植田を現在地まで連れてきたことも事実である。
「宅配ドライバー時代、会社は「ドライバーは個人事業主。売上を上げたら給料が上がるから」と言うけれど、結局は会社が定めたルールに従わざるを得なかったわけです。お客さんが「おまえがんばってるから」と買ってくれても、自分には直接何か見返りがあるわけでもない。今ならそこまでしなくても…とは思うけど、当時はそれだけ“やった感”がほしかったんでしょうね(笑)」
 どこかもの足りない感覚は、植田に「地に足のついた」暮らしを求めさせた。自給自足をこころざし、野菜のみならず米も作ろうとしたのも、そのベクトルに沿った動力源だった。能勢に来る前には、味噌づくりや大工仕事を試みたこともある。
「何から何まで自分でやろうとすることもやめて、プロに任せたり、人を巻き込んだりしながら進めた方がいいかなと思う今日この頃です。「手づくり」や「自給自足」を実現させたくても、手先の器用さとかはがんばりが解決するものじゃない。いまは適材適所のほうがいいかなと思っています」
 べじぱを立ち上げて間もない頃には、卸売業者に野菜を卸していた時期もある。だが、規定量単位で袋分けにしたり、野菜の葉っぱを取り除いたりといったルールに沿わせることにげんなりした植田は、自力での販路開拓一本へと経営の舵を切る。「今なら当たり前として受け入れられる」ことだが、当時の植田には安定を犠牲にしてでも捨てたくないこだわりがあったのである。
「その点、子どもが3人いる今、生活は大変になっているはずなのに、当時より気が楽というか、だいぶ肩の荷が下りた感じはあります。実際、8割くらいの力でやった方がいい結果が出るような気はするんです。100%の力を注ぎつづけてもいずれパンクする、ということも経験上わかりましたしね。
 当たり前のことかもしれないけど、どれほど忙しくても、生活の中に漫画を読んだりする時間も必要だなと。ここでサボって失敗したら自業自得や……というような思いも隅に追いやるようにしています。むかしの自分の120%がいまの自分の80%くらい、というのが理想ですね」
 10代の頃の植田がビル・ゲイツや孫正義に惹かれたのは、彼らの生き方に革新的な匂いがしたからだった。既成概念や固定観念への否定からはじまり、ロックテイストな音楽を好み、いつ死んでもいいというような破滅的思考を持っていた20歳の頃を経て、自給自足、無農薬栽培、物々交換にこだわった日々も過去のものへ。これまで取り入れてきた視点によって撹拌された思考は、一見特徴のない無個性という個性を炙りだしている。
「今では一周まわって、ジャンクフードもいいなと思うようになりました。うまかったらええやんというようなノリもあかんとは思うけど、頭でっかちになりたくはないかなと。昔の自分が極端だったからでしょうけど、あんまり偏りたくないというか、こだわりすぎないことにこだわっている感じですね。どんな手段を使ってでも、やっていることを軌道に乗せるほうが大事ですから」
 とはいえ、公園のように気軽に足を運んでもらえる畑にしたい、そんな思いを懐に抱きながら作り上げた「べじたぶるぱーく」は、人一倍のこだわりなくして語ることはできない。立ち上げた頃には、採算度外視で、観賞用のかぼちゃやヘチマ、ひょうたんなどの野菜づくりに挑戦していたこともある。「遊べる本屋」にヒントを得た「遊べる畑」とも呼べるような独自の世界は、久しく植田の胸に息づいている楽しみにあふれた自由でのびやかなサンクチュアリなのだろうか。
「テーマパークみたいに、与えられたアトラクションで遊ぶというよりは、砂場とかで好きに遊んでよという感じです。だからお客さんに対しても、野菜の食べ方とかはあまり説明しません。畑を見に来てもらったとしても、収穫体験をするよりは凧揚げみたく農業にまったく関係のない遊びをするのもいいかなと思っているくらいです。
 こっち(作っている人間)の気持ちをわかってくれと口で言うよりは、現場に来て感じ取ってもらう方がよっぽどいい。そういう経験が、相手の立場や気持ちを思いやることにもつながっていくような気がするんですよね」

 

※ 以前、こちらで求人記事を書かせていただきました。

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