#2 庄司林業 / 山業ビジネス&プロジェクト 代表

番外編 #2   東雲(しののめの期〜

庄司林業 / 山業ビジネス&プロジェクト 代表 庄司樹さん


Profile#2 庄司樹さん

1981年生。山形県大江町出身、在住。高校を1年の時に中退し、映画の道へ。地元山形の社会人グループに混ざり、自主制作映画に関わり始める。02年、『蕨野行』にて助監督としての初仕事を経験し、04年上京。以後、フリーランスとして『それでもボクはやってない』『あずみ2』『相棒―劇場版―』『ハンサム☆スーツ』『酔いがさめたら、うちにかえろう。』などの劇場映画にて助監督を務める。 2011年春、 29歳の時にUターン。父が社長を務める庄司林業にて働き始める。翌12年11月”山業ビジネス&プロジェクト”を立ち上げ、身近な森林、里山の資源を使った製品開発や体験学習、自然エネルギーの事業化を目標に活動。その傍ら、野外音楽イベント・CBJAMの中心メンバーも務めている。 ※ 文中敬称略

記事公開:2014-04-29

描いている理想
「横着していたらダメだなと思ったんです」
 2014年2月。山形県でエネルギーシフト事業に精力的に取り組む有志達と視察旅行に行ったオーストリアで、庄司は刺激を受けて帰ってきた。オーストリアは、木質バイオマスを含めた再生可能エネルギーを積極的に活用している国として世界的に注目を集めている国だ。そこで義務教育の一環としてエネルギー教育が行われているなど、国民の中にしっかりと価値観が根付いている現場を肌で感じてきた。また、少数ではあったが、バイプレイヤーとの出逢いもあった。木の切り出しから加工、自身で所持しているボイラーで熱を生み出すに至るまで、すなわち一から十までの過程をすべて自分の手で行っている人間がいたのだ。
 文明が発達した日本は、多くのものを得たと同時に多くのものを失ってきた、そして失いつつある。その一つが、「百姓」に象徴されるゼネラリストの存在だ。
 庄司自身も、エネルギーシフトを進めていくにあたって、供給側の視点でしかエネルギー事業を考えていなかった。需要側の知識はまるでなく、その分野に詳しいプロに頼めばいいと思っていた。要は、完全に棲み分けして考えていたのだ。だが、オーストリアで出逢った人たちを見て心が変わった。大江町に本社を構える電子機器メーカーの社長の「全部(必要)だよ」との言葉も気持ちを後押しした。
「まずはボイラー技師の資格を取るなど、仕組みを理解し、人に頼らず、自分でできることは自分でやろうという気持ちが生まれました。知らずに損することは多いかもしれないけれど、知っていて損することが多いとは思えませんから。勉強は苦手ですけど、好きですしね。時間はかかるかもしれません。でも、一段一段、着実に階段は登っていきたいなと」
 庄司樹、32歳。山形県大江町出身の庄司は11年春に東京からUターンして以来、父が社長を務める庄司林業の社員として働いている。林業や山の持つ可能性に気づいた翌12年11月には“山業ビジネス&プロジェクト”と銘打ったグループを立ち上げ、県内の有志たちと山を基点とした生業づくりを目指してきた。現在は地域全体の自然エネルギー、とりわけ木質バイオマスエネルギーへのエネルギーシフトを図るなど、未来を見据えた若手の有望株だ。
 そんな庄司だが、昔から前向きだったというわけではない。庄司林業は、庄司の祖父が起こした会社である。大江町のような田舎では、長男が家を継ぐことは暗黙の了解でもある。かねてより庄司の頭にもそのことはあった。だが、いずれは継ぐんだろうな…という漠然とした思いを抱いている程度だった。林業にもさしたる興味を持っていなかった。
 きっかけは09年頃。友人の「おれ、林業やる」との一言だった。想定外の言葉に驚くと同時に、新たな視点が生まれていた。そうして林業という仕事にも興味が向き始めたなかで、起こったのが3.11だった。その後、林業への思いは一気に加速。一方、社会全体としても、原発問題が急浮上したことに伴って、自然エネルギーに対する関心は以前よりもはるかに高まってきた。
 原発はいるのかいらないのか? 安全が確保できるならば、再稼働してもいいのか? 誰の言うことが正しくて、誰の言うことが間違っているのか?
「たしかに原発に関しては猛反対です。とはいうものの、僕らは当たり前に電気を使っていて恩恵を受けているわけですよね。だから、反対するからには代案を出したい。そして、流れてきた情報を鵜呑みにせず、きちんと実験によって検証した上で、押しつけるのではなく提案したいんですよね、そうあるべきだという自身への戒めもこめて」
 そういった考えを、庄司は助監督時代に身につけた。「ダメ出しをするからには、代案を出せ」そう尊敬する先輩助監督の一人に口酸っぱく言われ続けていたことで、心意気や姿勢が備わっていったのかもしれない、と分析する。
 批評することはたやすい。だが「会社に評論家はいらない」と言われるように、地域にも評論家はいらない。
「『自分たちで出来るからもう原発なんかいらないよ』って言える体制を整えたいんです。(電力の供給源となっている)都市部と電線でつながっていなくとも平気だよってところまで行くのが理想です。そして、ちゃんとした産業として、雇用を確立できるまでにならないといけない。ビジネスという観点からしても、エネルギーは取りっぱぐれしない分野かなと。要は地域としての独立、インフラ部門での独立が目標です。
 でも、それは何年かかるかわからない。僕の代で成し得ないことなのかもしれない。だとしても、自分の人生の中で最低でも道筋だけはつけてみようかなと。今はほぼ単独で動いているけれど、いずれ僕の考えに賛同して実際にアクションを起こす人、ライフスタイルを変えようとする人たちが増えて大きな輪を作れたらいいなと思っています。
 願わくは、千手観音のように色んな人の助けになるようなことをして、地域が独立するという形に結びつけられればいいなと。障害者の人の社会的地位を上げなくちゃいけないってことも頭の片隅にはあります。世の中にはほんとに色んな人がいるので、欲張らず、いがみ合わず、可能な限り手を取り合って生きていける社会づくりをしたい…。というと、「政治家にでもなるつもりか」とはよく言われるんですけどね。(笑)
 実際、インフラ部門での地域の独立はあくまでも手段のひとつです。僕がその先に見据えているのは教育や文化、民俗など地域を構成するものををすべてひっくるめた“里山社会”づくりなんです」

動かしているもの
 そうして理想を描く一方で、庄司は冷めた目も持っている。
「世界を変えようなんてどだい無理な話です。劇的に変わる日が来るとも思っていません。仮に、もう一度原発事故が起こっても、人々は今までと同じように石油も電気も使い続けるだろうとは思います。でも、やらないよりはやった方がマシなのかなと」

 人が行動を変えるのはどういうタイミングなのだろうか? 三浦はこう話していた。
「やっぱり、頭だけで理解して、理性だけで人が変わるのは無理な話だってこと、何らかの利害関係とか本能的な危機感とかいうものなくして、人は変わらないんだってことは長年の経験の中で実感させられてきましたよね」
 裏を返せば、人が自らを奮い立たせて、あるいは誰かの力を借りて行動を変えていくことはそれだけ難しいことなのかもしれない。事実、今のところ薪は日本では高価なものであり、石油のような手軽さはない。薪ストーブを導入し、そのために家の工事をし、手間もかかる…となると尻込みする人は多いだろう。かくいう庄司家では、05年頃、現在庄司林業の社長を務める庄司の父が自宅に薪ストーブを導入して以来、石油の消費量は半分以下に減ったという。
 「山形のような場所では、薪のような身近な資源でエネルギーを生み出すことができます。だから、なるべく石油ストーブは使わないよう心がけています。
 もう四の五の言ってられない状況になっていると思うんです。意志を持っている、あるいはできる人はとにかくやらないといけない。さもないと、また取り返しのつかない事態に陥ってしまう恐れもありますから。
 とりあえずムダと思えるものでも色々とやってみること。いきなり100点はとれないだろうから、上手くいかなくとも悲観的にならないで懲りずに反省しつつ、諦めずにやっていきたいなと。今はとりあえず草の根作戦を実行しているという段階です」
 やりたいと思っていてもできない環境にある今、庄司の目指すところは、やりたいときにやれる環境づくりだ。
 “山業ビジネス&プロジェクト”の事業としてクロモジの葉を使ってアロマのワークショップを開いたり、ナラ枯れの木を活用しブランド製品を作ったりしているのも、草の根作戦の一環だ。それらの費用はすべて庄司のポケットから出ている。おまけにワークショップは毎回赤字だ。
 「ワークショップをやって儲けたいわけでもないし、ちやほやされたいわけでもない。文字通り“体験学習”を通して、それまで知らなかった里山資源に関する情報をインプットしてもらうことが大事なんです。まぁ、知人からは「バラマキ」だと非難されているんですけどね(笑)」
 そんなふうに羽振りがいいのは、庄司が自己犠牲の精神に富んだ人間だからでもない。
「人生で一度、ほんとにいい思いをしたんですよ、収入がものすごくよかった助監督時代の一時期に。3日働いて1ヶ月休むってこともたまにありました。おかげで欲しいものをたくさん買えて、美味しいものをいっぱい食べられて、世界の超一流と呼ばれている人たちと一緒に仕事ができるという本当に幸せな時間を過ごせたんです」
 シナリオを書きたいとの一途な思いを胸に高校を1年の時に中退。山形の社会人グループに混ざり自主制作映画を作るようになって以来、映画の世界で生き続けていた庄司は、23歳のときに上京した。助監督になった当初は眠たくても眠れない時期もあった。1日30分睡眠が4ヶ月半続いたこともある。しかも、当時のギャラは数万円の見習い価格。だが、助監督としてキャリアを積んでいく中で半年が経つと、ギャラは10倍近くにはね上がっていた。
「頭がおかしくなりそうになりました。だって、今まで味わったことのない世界にどっぷりつかっていたんですから。この世は天国かとの錯覚を覚えました。バブルの頃はこんなだったのかと思いを馳せたりもしました。それでも結局、富裕層の価値観に違和感を覚え、そこで踏みとどまったんです。
 出会いに恵まれた僕は、ほんとにラッキーだったと思います。自画自賛みたくなるけれど、夢を抱いて東京に行ったとしても、一流と呼ばれる人がゴロゴロいるようなところまで行ける人って多くはないと思いますから。黒澤明監督の撮影チーム(黒澤組)の人たちと一緒に仕事をできたことは本当にラッキーだった。映画業界の中でも、黒澤組にいた人ってやっぱり別格として見られるんです。箔がついているというか。
 そうやって自分はいい思いを散々してきて、欲しい物もほぼほぼ買えたので、もう自分のためにお金を使う必要がないんです。自分だけが得をすることを幸せだとは思わなくなりました。今、友達や見知らぬ誰かが楽しめるようなこと、喜ぶようなことをすることが僕にとっての幸せなんです」

庄司の持つ“強さ”
 とはいえ、人間は複雑だ。いわゆる”煩悩”の中で常に揺れ動く不安定な生き物でもある。そう考えると、庄司は自戒の念が強い人間なのかもしれない。真の意味で“ブレない”人間なんてこの世にはいないはずだ。
「名誉欲もゼロじゃない。富も名声もあるに越したことはないと思います。でも、それよりも目標を達成することの方が僕にとってははるかに大事なんです。だから、結果に対して厳しいところはあるでしょうね。

 人に褒められたいというよりは、できる自分になりたいというモチベーションの方が強いのかもしれません。今まさにエネルギー事業に挑戦しているように、できるかどうかわからないことができるようになった自分に満足を覚えるタイプなんでしょう。
 だから、誰かに褒められたとしてもあまり響かないんです。むしろ、ダメ出しされた方が愛を感じます。だって、そこで満足してしまうとさらなる高みへと続く道が閉ざされてしまう気がするんです」
 その言葉は、過去が証明している。
 映画制作の現場は、ヤクザな世界だという。見習いの頃、先輩にグーで殴られてボッコボコにされたこともあった。気絶するまで殴られたこともあった。「おまえみたいな奴は辞めちまえ」「死んでくれ」と散々罵られることもあった。だが、庄司は挫けなかった。罵ってくる人たちに敵意を持つこともなく、自身の至らなさによるものとして原因を自分の中に探し出そうとしていた。そして最後までやりとげなくちゃとの信念のもと、最後までやりきった。後日談としては、撮影が終わった後に「途中で逃げるだろうと思った」と先輩から言われたという。
「最後まで好かれはしなかったけれど、“やりきった”というところで自己満足はありましたよね」
 庄司と時を同じくして映画の世界に飛び込んだ者の多くは、厳しさに耐えかねたのか、軒並み去っていった。すぐにノイローゼになった者もいた。庄司は残ったひと握りの存在になっていた。
「いくらダメ出しされてもつぶれたことはないと断言できます。諦めたことも自身の記憶の中にはありません」
 両者を分けたのは何だったのか。庄司は、その違いをこう説明する。
「監督という職業が目標だったか、作品が目標だったかの違いだと思います」
 遡れば、庄司は小さい頃から職業はゴールではないと思っていた。
「僕はあんまり感じたことがないからわからないけれど、職業をゴールに設定してしまうとモチベーションを維持するのが難しいんじゃないかと思うんです。というか、まわりを見ていると難しいんだろうなと感じます。それを避けるために、その先を見据えて「その職業に就いて何をするか」を前もって思い描いていた方がいいと思うんですよね」
 本来、職業とはあくまでも肩書きでしかないはずだ。あくまでも自分の一部でしかないはずだ。リリー・フランキーは『二十歳の君へ ―16のインタビューと立花隆の特別講義―』(東京大学立花隆ゼミ+立花隆 著)のインタビューでこう語っている。「「なるべく遠くの星を指しなさい」っておれはよく言うんだけど、それをこないだ茂木健一郎さんは脳科学的にもそうなんだって言ってた。近い星の方が光ってて、みんなわかりやすいからそっちの方向を指すかもしれないけれど、なるべく消えそうなものから指していく。世界を変えたいなって思ってて変えられないにしても、何かは変えられるかもしれないじゃん」(原文ママ)
 庄司は子どもの頃から自分の中に軸を持った人間だったのか。であるがゆえにまわりに流されにくい、惑わされにくい人間だったのかもしれない。助監督をやり続けられたことからしても、庄司は“強い”人間なのかもしれない。高校を1年で中退したことも、ある種の“強さ”であろう。ただ、その“強さ”が常にいい方向に働くとは限らない。
「チャンスを自分からとりにいったとは思います。あくまでも自負でしかないけれど、そうやって労力を使って見つけたものに関しては愛着もあります。と同時に、それを試みてもいない人に対しては厳しい目を向けてしまうところがあるので、よくないなぁとは改めて思うんです」
 助監督としてバリバリ仕事をしていた頃の庄司は、人に対して「何でそんなこともできねぇんだよ!」と言い放ったり、自身が言われて嫌だったことを平気で口にできるところがあった。
「悲しいかな、一度そういうものが身に付いてしまうと、辞めなきゃ、なくさなきゃと思っていてもなかなか抜け出せないもの。だから、自分は不完全だという認識は常に持っているんです。理性的に立派な人間でありたいという願望を抱いている一方で、理性を飛び越えてそういう感情を表に出してしまうもどかしさも感じています。
 それでもやっぱり言いたいのは、否定するなら代案を出すべきだってこと。そして、代案を出せないなら簡単に否定すべきじゃないってこと。それは横着ですよね」
 人間は歩んできた過去によって作られるところがある。庄司は骨の病気という、生まれつきの身体的なハンディキャップを持っていた。小学校3年生のときに発覚したその病気ゆえ、マラソン大会に出られなかったり、ドッジボールでは外野専門だったりと、他の子どもたちのように運動ができなかった。そんな環境で抑圧されたエネルギーを解放させられる場所や機会を欲していたのではないか、と庄司は振り返る。
「わりと前向きな一方で、コンプレックスの塊みたいなところもあります。かつて、映画の世界に飛び込んで夢中になったのも、そのコンプレックスがバネになっていたからなのかもしれません」
 庄司は努力してきた人間である。だからこそ、努力していない、あるいは努力できない人間に歯がゆさを感じてしまうのだ。
「会社の経営って難しいですよね。まだまだ自分にはできる気がしない。助監督時代は、ある程度語気を強めれば何とかなっていたというところはあったんですけどね…」
 庄司はまだ経営者ではないが、すでに準備を進めている。頭の中では、すでに理想の経営者像が繰り広げられているのだろう。

挑戦という生きがい
 とにかく、庄司にとって映画は欠かせないものらしい。16歳のときに飛び込み、10年以上どっぷり浸かったその世界で、庄司はすごくいい思いもすごく嫌な思いも経験してきたという。
 「振り幅の大きな人生だったんじゃないかと思うんです。短期間でどん底と絶頂を体験できたことは、価値観が180度変わるためには申し分ない条件でしたよね」
 勉強のおもしろさに目覚めたのも、助監督になってからだった。たとえば医療モノの仕事をしているときに、「この事典にこう書いてますけど、こういうことでいいんですか?こういう芝居は正解ですか?」と医療関係者に尋ねると、「病院によって正解はまちまちなんで」という答えが返ってきた。
「正解が一つじゃない問いに対して、何通りもの方法を考えること自体が勉強なのかなと思うようになれた。大事なのは答えでなく解き方かなと。20代前半でやっと、勉強の仕方が分かった気がしました。物事をうのみにせず、常に疑問を持ち続けることの楽しさや重要性も知りました。
 すくなくとも井の中の蛙を脱したところで、色々経験できてよかったなと。映画のいいところは、医師や弁護士、刑事といった色んな業種の人たちと仕事ができるところですね」
 映画制作の現場はまさに挑戦の連続だった。安定的に仕事を確保するために、有名な監督の一派に属す者もいた。だが、庄司はその道を選ばなかった。いろんな監督の下で作品づくりを経験した。独身で守るものが自分以外になかったからこそ、心おきなく挑戦ができたのだ。
「おかげで、監督のあり方にも正解はないことを知りました。たとえば、僕が助監督として最後に関わった映画の監督はイラン人。彼は日本人ならば総スカンを食らうような不条理を、翻訳できないレベルの汚い言葉で捲し立ててるような変な監督でした。でも、その作品はかなりとんがったいいものに仕上がり、今まで観たことのない映画を作れた気がしたんです」
 とにかく、映画に対する思い入れは人一倍深い。
「僕自身、映画で人生が変わった人間でもあるので、不特定多数の人の気持ちや行動を変えるだけの力が映画にはあると信じたいところはあるんですよね。だから、いつの日か、エネルギー事業が上手くいったあかつきには一本撮りたいと思っているんです。観た人に深い余韻を残して、行動を起こす引き金になるような映画をね。
 本来、映画は産業の一部であるのがいい。それが引き金となって、その映画のテーマの周辺産業が活気づくという形が理想的かなと思っています」
 だが、そこに至るまでの道のりはまだまだ遠い。
「まともに考えれば、エネルギー事業なんていう複雑極まりないことはできないだろうと思いますよね。でも僕は、逆にどうも無理っぽいなとわかっているからこそ燃えるんです。自分でも笑っちゃうのが、無理っぽいってわかってきて余計にエンジンがかかってきたこと(笑)。僕にとって挑戦は生きがいなんです」
 オーストリアで出逢ったバイプレイヤーたちにも挑戦意欲をかき立てられた。
「バイタリティ溢れる彼らが明確なビジョンを持ってアクションを起こしていたのはさることながら、何より心に残ったのは彼らがすごく楽しそうに挑戦していたこと。そんな彼らをを見ていると、こっちまで幸せな気分になったんです」
 どんな大企業にも、どこの地域にも黎明期はあったはずだ。注目されようがされまいが、後世に残ろうが残るまいが、時代は新たな幕開けと幕切れを繰り返しながら流れているのかもしれない。そして、それぞれの幕開けをお膳立てした人物がいたことはいつの時代もきっと変わらない。おそらく今も、地球上のあちこちで黎明期を迎えている場所があり、奮闘している人たちがいる。
 きっと庄司もそのひとりであり、山形もそのひとつなのだ。20年後、30年後、庄司や山形がどうなっているか楽しみだ。





おわりに
副題とした「東雲の期」。「期」という漢字には、「一定の時間」という意味の他にも、「期ふ」と書いて、「一定の時と所をきめ約束してあう。ちぎる」という意味をもたせることもあるらしい。つまり、期するということは、それが起こることが前提として待つということだ。明けない夜はないように、東雲の時代にある今、僕たちは来るべき世界を雲の彼方に予感しているのかもしれない。


 


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