#83 フィジー共和国 Free Bird Institute 理事長 谷口浩さん


 それから、明確な価値基準がない曖昧な世界も嫌いです」
 2年次から建築部へと転部した谷口は、あることをきっかけに、4年次に中退している。
「自分で作った「A、B、Cの3つのアルファベットのうち、どれが一番美しいか」という命題に対して、教授は「順位はつけられない」と答えました。他の学生に訊いても、答えはまちまちでした。僕にはそれが理解できなかったし、気持ち悪かったんです。
 秩序も優劣もない芸術なんてまやかしですよ。何が美しいかもわからないのに、何が美しいかを勉強するのは完全に愚かな行為でしょう。そやから、アーティストなんかは社会の歯車ですらない。人間よりもむしろ猿とかに近い人種だと思っています。
 だから、いずれ建国予定の「谷口帝国」では、芸術分野は料理くらいしか残らないでしょうね。音楽とかはいりません。そうですね…世の中に100曲あればもう十分なんじゃないですか(笑)」

“強さ”に憧れて
 建国という目標が谷口の中に生まれたのは、20歳の時のことだ。
「理由は、どこにも住みたい国がなかったから。アメリカや中国、フィリピンとか6カ国くらい行っていた中でそう思うようになったんです。
 僕はこれまでの選挙で白票しか入れたことがないんですけど、それも理屈は全く一緒。入れるべき人がいないから、自分がなってやろうということなんですよね」
 「建国」へのプロセスとして谷口は、「上場企業の社長」「国会議員」、最後に実地体験としての企業経営、国家経営を学問に落とし込んでの「博士号の取得」が必要だと考えた。
「「上場企業の社長」になりたかったわけだから、今、教育に関わっているのはたまたまなんです。何の会社で上場するかまではイメージしていなかったし、別に教育ではなくともよかったんですよね」
 谷口が初めて “社長”となったのは、27歳の時のことだ。
 正式な肩書きは「北陸対外事業協同組合・理事長」。主な事業は、中国人労働者に日本語や技術的なノウハウを教え、国内企業に労働力として提供していくというもの。立ち上げに際し、全くつてのない金沢で事業計画書を片手に飛び込みで営業をかけた谷口は、回った30社弱のうち20社から出資の承諾をとりつけ、300万の出資金を集めることに成功した。
 谷口のねらいは社会のニーズに合致。年商は1年目3,000万、2年目1億と右肩上がりに増加し、4年後には年商3億8000万となった。
「やってみて、自分は金を儲けるのが得意やなと思ったんです。数字には強く、八百屋とか魚屋をやらせてもフランチャイズ展開できるくらいの商才は一応持っているなと。そこから手を引いた理由はいくつかありますけど、お金儲けが嫌になったのと、商才を使うのが嫌になったというのはありますね」
 現職の教育産業は、組合の理事長を辞任した谷口が次に選んだ仕事である。
「まずはやったことがないもの。そして、一人でできることはできてしまうから、グループを組まないとできないものをやろうと。立ち上げる際、「IPO(株式公開)と上場」をゴールとして設定したのもそういう理由です。
 それから、人ほど難しいものはないから、人を作る教育がいいかなと思ったというのもありますね。でも、教師として教壇に立つのでは影響力が小さくなってしまうから、一歩二歩ひいたところからデザインする方がいいなと。
 やっぱり、簡単にできるものはおもしろくないですから」
 そんな谷口が某大手電子機器メーカーからヘッドハンティングされたのは5年前のこと。提示されたポストは「常勤役員」。60代の面々が名を連ねる中での異例の大抜擢だった。
「その時はめちゃくちゃ悩みましたね。最終的には自分の会社があるということで断りましたけど。でも、私的に改善案をいくつか提案させてもらいました。
 やっぱり、僕が抜けたら、この会社はなくなりますから。今まで助けてくれた奴らを裏切るわけにはいかんでしょう。給料を払っているとは云えど、僕が好きでやりたいことを手伝ってくれているわけですからね」
 とはいえ、見据えるゴールは変わらない。
「会社経営や政治は僕にとってあくまでもプロセス。自分の国を運営するというのが一番やりたいこと。
 直近では、誰もそんなことは出来ていません。でも、見果てぬ夢だから何もしてません…というのではなくて、常に夢に向かう途中じゃなきゃいけない。普段の生活において、一分一秒たりとも夢を実現させるための時間は無駄にすべきじゃない。どうすれば最短距離でそこにたどり着けるか、考えて生きていくべきだと思っています。
 それだけ僕は真剣に生きているんですよ。だから、たとえ私生活であっても、生きるということに対して全く手は抜きません。食を例にとれば、その時々で食べたいものを食べたいと思っています。コンビニの弁当は食べないし、「とりあえず餃子とビール」というような生き方もしていません。朝起きて美味しいものを食べたいと思ったら、一番美味しい店を探しますから。
 もし仮に交通事故に遭って、足が折れたとしても僕は働きますよ。働けなくなったのであれば、野垂れ死にます。いずれにせよ、僕は一切「施し」を受けません。生活保護も受けません。僕の場合、誰かが手を差し伸べてくれるとは思いますけど、僕はそれも受けません。というのも、人から施されること自体嫌だから。
 だから、弱い者を見た時には腹が立ちます。同時に、強くしてやりたいとは思います。そのためにあるのが教育なんです。逆に福祉なんかがあるからダメなんですよ。障害者にも貧しい人にも老人にも、全て福祉はいりません。とにかく、日本の今の福祉制度には大反対です。だって、老いさらばえたライオンは病院に行かないでしょう?」
 そういった谷口の考え方は生来のものなのか、あるいは育った環境によって作られてきたものなのか。
「おそらく生まれ持ったものによるんでしょうね。
 遡れば、小さい頃からずっと強さへの憧れは抱き続けています。首の骨が折れてもケンカできるくらいに意志の力は強い子供でした。学校で一番成績が良かったのも、元々僕の頭がいいからというよりは、人に負けるのが嫌、自分自身に負けるのも嫌という思いに動かされていたからだと思ってます。そんな思いを胸に、寝る時間を割いてでも勉強したり、他人よりたくさん本も読んだりしてきた過去があるから今の僕がいるわけです。そこは人と違いますよね」
 谷口は1972年生。福井県小浜市にて裕福な家の長男として生まれ育った。父は、建設業を中心に複数の事業を手がける地元でも有名な事業家だった。
 高校時代、生徒会長に立候補し当選した際、近所のおばさんからかけられた「いいわね、浩君は。お父さんが社長をしているから」との言葉は、谷口の心に火をつける。
「それ以前から、周りは僕の成績が良くても親を褒めるようなことばかり。このままでは自分の力がいつまでも認められない……。だから、大学には親の資金援助を受けずに通おうと決めたんです」
 だが、日本の奨学金制度では、一定以上の収入がある家庭の学生は成績如何に関わらず、受給する権利がないと知る。そこで谷口は図書館で関連資料を調べあげ、奨学金制度を活用できる中国とアメリカの大学を受験した。
 それから約4年。同済大学中退後は、香港の大手不動産会社に就職。イギリスに本社を構えるその会社で、谷口は語学の堪能さを見込まれ営業に抜擢。初月からトップセールスを記録するなど頭角を現した。「人の3倍ではきかないくらい働いていた」当時、歩合制のインセンティブも含め、収入は毎月日本円にして200万を超えていた。
 タイの不動産会社を辞めた後に訪れた、97年7月1日。アジア金融危機によるバーツの切り下げは仕事の切れ目にあった谷口の財布を直撃した。所持金は1/4となり、あっという間に底をついた。
 打つ手がなくなった谷口は、やむなく父から提示された「後継ぎとして父の会社で働く」という条件をのみ、帰郷する。
 だが、根本的に相容れなかった父と衝突を繰り返した末、1年半で家を出る。その際、谷口は父から手渡された一切の財産放棄を認める書類に判をついた。そして、後先考えずバイクで家を飛び出した谷口。縁もゆかりもない金沢は、バイクのガソリンが尽きた場所だった。
「とはいえ、自分が最強だなんて思っていません。むしろ強くないから、強さに憧れ、強さを追い求めるんです。そこは謙虚に、自分はまだ強くなる途上だと思っていますね」
 時たま行う断食も、谷口にとっては自身の強さを測る試金石の一つである。「口にしていいのは水だけ」とのルールを設けて行ってきたこれまでの断食の最高記録は10日間。その他「万策尽きて、社員をクビにせざるを得なかった」時などには、「自分への戒めのような感じ」で3日ほどの断食を行う。
「目標を破ることなく10日後を迎えられると、できたという達成感と「僕は何でもできる」という確信が出てくる。人間にとって、10日でできる苦しいものってあんまりないでしょう? そのなかで、ゴールをたった10日後に設定できる断食は、有言実行に挑戦して、ゴールを楽しむためにやれる一番手軽な“ゲーム”なんです。株やFXにもゲーム性はあるけど、他力本願的というか、しょせん運ですから。
 協同組合を立ち上げた時もそう。全く勝算がない、つまり簡単なゲームじゃなかったからこそおもしろかったんです。僕にとっては、前職を辞めて何か新しいことを作り上げている時が一番おもしろい。この会社を立ち上げる時にしても、給与制度からホームページ、パンフレット、契約書の類に至るまですべて自分で作ってる最中なんて、めちゃくちゃおもしろかった。だから、僕は「創造者」であって「経営者」ではないんですよね」
 立候補者として必要な条件を満たせなかったため、「国会議員」の夢は次の選挙が行われる4年後に持ち越しとなったが、建国へのワンステップとなる「上場企業の社長」との目標が叶う日は目前に迫っている。2013年12月に済ませたフリーバードの株式公開に続き、今月(2015年2月)末には南太平洋証券取引所への上場を予定しているという。
「11年目にしてようやく…という感じですね。いわば、よりおもしろい“ゲーム”の最終局面でラスボスを倒そうという段階です。そこをクリアしたら、さぁもう一回、同じゲームを最初からやり直そうとはならない。だから、会社を売って、フィジーでカレー屋をやるのもいいかなと。(笑)料理は得意ですから」

 

<編集後記>
遥か昔、まだ日本に国というものが出来ていない時代、人々はどう生きていたのだろう。 当時と比して与えられることに慣れすぎた今、僕たちの血の中に眠る狩猟本能はもはや昏睡状態 に陥っているのかもしれない。

 

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