#55 写真家 前田 有歩さん

”心のふるさと”を持って…
 今、こうして写真を通して”表現”をしているわけですけど、山形で写真を撮り始めた頃から写真の構成の安定感とか色味は変わっていないかな。たぶんそれは持って生まれたものとか生き方なんでしょう。

 実は私、昔からずっと”何か”を追求することの怖さを感じていたんです。
 ――小学校から絵がずーっと好きだった私は、大人になっても休みの日に美術館を巡ったりしていました。そんなある時気づいたんですよ、私が好きな作家はだいたい自死してるって。なぜだろうと思いを巡らせてみると、恐らくだけど、自分自身を追求していく過程で自分が自分でわからなくなって最終的には自殺を選んでるんじゃないかなと。そう思うと、追求することにある種の怖さを感じてしまうようになってしまった。自分の撮った写真の背景にも彼らと近いものを感じていたからこそ怖かったんでしょうね。表現に携わっていると、だんだん生と死を扱うことが避けられなくなってくるわけですから。
 その怖さっていうのは、(言葉にはできなくとも)小学校の頃から漠然と感じていたんですよね。当時は小説が好きだったから作家の方だけど、例えば芥川龍之介。明るい作品でも、意外と背景の暗い部分があって、その部分が見えてくるとより深く読めるなと感じていたんです。そんな彼も自死しています。(自殺してはいないけど)好きだった北杜夫にしても、ユーモアの裏側にはけっこう暗さがある。そして、大学時代好きだった夢野久作にしても背景のどす黒さがある…。そう考えると、惹かれる世界観みたいなものは小さい頃から変わっていないみたい。
 一方で、学校生活の中ではもっぱら外交的でしたけどね。たぶん、私の友達で私のことを内向的だと思った奴は誰もいないと思う。きっとそこで上手くバランスがとれていたんでしょうね。7割か8割かはわからないけど外交的で他者の意見を受け入れる場があったとして、残りの2割は例えば本を読むなり映画を観るなりしてきちんと自分の時間を持って内に向く時間を作っているという感覚はありましたから。そのバランス感覚みたいなものは、無意識のうちにはたらくんでしょうね。意識的に両者を使い分けているわけじゃなくって。
 とすると、風景の写真を撮っている時も何気なく撮る時と内面を追求してとる時を無意識に使い分けているのかな。無意識にはたらくバランス感覚が、夢中になってしまいそうな自分を引き留めているのでしょうか。
 私は今、「内面を追求する写真はNG」というテーマを掲げているKSフォトクラブにも所属しているんですけど、完全に心を別にしないとそこには所属できないんです。というのも、内面に向かいたいわけだから。ならば、なぜそこに所属したか…。その答えは自分の中ではっきりわかっているんです。なぜなら、KSフォトクラブに身を置いてほっとなる写真を撮っていると、いつでもそういう場面に戻って来れるんだという感覚が生まれてきたから。そのおかげで、内面をどんどん追求できるのかなと思えたんですよ。だから言ってみれば、「心のふるさと」のような感じかな。そういう場所を持つことは、私が表現をする上で確実に必要な場所だと気づいたんですよね。それはそれで皆を喜ばせることができますし。
 だから、今大事にしているのは、何気なく撮った風景と内面を追求した時に撮った風景の両者のバランスを保ちながら表現すること。
 今年8月に開催した「みぢかなところ」写真展の中でも、心が沈んじゃってさみしいだけで終わらないように、両者を混ぜて展示しました。私が表現したいのは後者の方だし、そういう写真を見た人が「あ、前田は現場に立ち尽くして表現しているんだ」ってことを感じてもらうと自分の意味は出てくるのかなって。実際、私は撮った写真のほとんどを加工しているんだけど、いわばその部分を表現するための加工でもありますから。

自身の”表現”
 表現するとは言っても、主張しすぎた結果ひかれたら意味がないという思いはあります。敬遠されてしまうのはもったいないという感覚かな。主張しすぎると伝わらないと思いますしね。例えば紅葉の写真で言うならば、紅葉真っ盛りの頃の写真と、葉っぱが色づき始めた頃の写真を比べたとして。前者の場合、逆に、後は落ちるしかないということで冬を連想してしまうわけです。一方で、後者の場合、真っ盛りの頃のことを思い浮かべることで心があたたかかくなる。そういう余地がある方が、私は好きですね。受け取り手に色々考えられる余地があってこそ受け入れやすいんじゃないかとも思いますし。やっぱり、完全なものを完全な状態で伝えようとしても伝わらないでしょうから。自身、理路整然としすぎているものにまず反感を持ってしまうという性分ゆえに、もう少し柔らかい表現の方がいいんじゃないのという思いがいつも潜在的にはたらくんでしょうか。

 とは言え、まずは自分の表現したいことありきですけどね。だから、見た人から「こういう風に撮ったらいいんじゃないの」と言われても、まず話はちゃんと聞いて理解はするけれど、たぶん自分は変わらない。まして、「あの先生がこう言ったから…」というのはあり得ない。今、自分が思うことだけを表現していく。…そういう意味では、おそらく頑固ですね。そして、そういうスタンスはこれからも変わらないと思う。
 実は、それが揺らいでしまった過去を経てきているんです――。飲食店で調理の仕事をしていた時は、料理の味の善し悪しを自分の舌で判断してなかったんですよね。全部他人の感覚だった。つまり、自分が美味しいと思っている味を伝えたいんじゃなくて、他人が美味しいと思っている味にしたいという方が強くって。いわば迎合しちゃってたわけです。一方で、すぐ側には自分で自信を持って美味しい料理を作る人間がいましたからね。これではこの世界で大成しないな…。そう思うようになったことをきっかけに私は調理の仕事を辞め、好きな”食”の分野で何か生かせないかと築地の仲卸の仕事を始めたんです。
 ひるがえって今は、自分が思ういいものを写真を通して表現できています。日々の暮らしの中で感じたことを伝えているにすぎないですけどね。だから、どちらかと言えば、「前田しか撮れない写真」というのが理想かな。でも、それだけを追求するつもりはありません。アーティストを目指しているわけではないですから。私が住んでいるところで、そういう表現方法をとっているのが前田しかいないという方がいいですね。きっとそれができれば、ファインアートの市場では評価されなくとも、共感を得るという点では成功すると思う。
 今はむしろ、自身にとっての表現は、写真でしか成し得ないんじゃないかと思っているくらい。1枚の写真に色んな情報を集められることに加えて、その写真を複数使ってバランスを考えながら表現するという手段が気に入っているんです。だから写真展はいわば自分の考えていることを凝縮できる場。先のことはわからないけれど、たぶんこれからもずっとそういう形を続けていくんじゃないかな。山形という場所は撮りたい、表現したいという思いを持ち続けられる場所だと思っていますから。

<編集後記>
有歩さんは、色んな意味で”みぢかな”人だと思う。
                                   記事公開:2013.11.28

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