#78 Cafe Espresso 店主 高橋 昌平さん

 思い返せば、旅の間、一冬働いていたスイスのホテルにはエスプレッソマシンがあり、毎日客に出していたこともある。
「要は、コーヒーにまったく興味がなかったということ。日本にいた時も、――当時は酸味の強いものが多かったこともあり――さほど飲まなかったし、そもそも美味しいとも思わなかったですから。
 というか、店で出しているものしか飲んでいないことも関係しているのか、そもそもコーヒーの味があまりわからない人間なのかもしれない」
 それでも、高橋の心は揺らがなかった。
「そもそも、やっていけるか否かということ自体、考えたことがなかったかもしれない。何とかなるだろう、くらいにしか考えてなかったんじゃないかな。でも、その裏にはやっぱり、日本以外の国を歩いてきた経験や、外から日本を見てきた経験から生まれた自信はすごくあった気がします。エスプレッソという今まで日本に根付いていないものをここでやってみようというのも、自信のあらわれだったのかもしれません。旅を終えてしばらく経った頃から、カラーというのは、色んな人と話したり、色んなものを見聞きしたりといった経験や生活体験を重ねるうちに自然と出てくるものだろうと考えるようになっていましたし。
 ところで、「歳をとると、人間は角がとれて丸くなる」とよく言われますよね。でも、私はちょっと違っていて、「歳を重ねるにつれて、トゲはたくさん生えてくる。すると、しだいにトゲは角へ、角は平面へと変わり、以前よりも大きな丸になってゆく」というふうに考えているんですよ」
 84年にオープンしたEspressoは、今年で30周年を迎えた。
「いつのまにか30年経ったという感覚です。始めるときもそうでしたが、今でも将来のことは一切考えていません。歳をとってやれなくなったらその時はどうなるんだろう、みたいな感じですね」

「反抗」と「自由」
「店を始めるときは、年代や職業や趣味が様々な人が来るような店にしたいという思いはあったんです。逆に、若者だけとか、特定の趣味を持った人たちが集まるような店にはしたくなかったかな。
 結果的には、ここのカラーが出ている証なのか、客層も大体決まってきましたけど。
 それは、自分がグループで行動したくないからでもあるんでしょう。
 遡れば、旅で訪れたパリにいた多くの日本人はたいてい、家で鍋パーティをやったり麻雀をやったりと、日本人同士で付き合っていたようです。
 でも、私はそういう風にはなりたくないなと。せっかく外国に行ってるのに、日本をひきずっていくようなのは嫌だなと思ってた。だから、現地で知り合う日本人も大勢いたけれど、好んで輪の中に入っていくことはなかったんです。
 みんなと同じことをするのを何としても避けたい気持ちがどうもはたらくんですよ。やりたい方向性を思い描いていても、それがみんなが寄ってたかって「いいね!」と評価するものになると、私は抜け出して別の方へと足を向けてしまう。振り返ってみて、今まで幾度となくそういう動機で行動したことを覚えていますから。
 たとえば、店で出すコーヒーをエスプレッソに決めたのも、「誰もやってないことをやろう」との思いがあったからです。店の呼び名にしても然り。かつては「カフェ」と自称していたのですが、カフェが流行りだして言いづらくなったので、「喫茶店」と言うようになりました。
 きっと、反抗的というかあまのじゃくなんでしょうね」
 周囲から「典型的なB型だね」とよく言われる高橋は、高校ではテニス部、大学ではスキー部に所属していた。
「テニスにはダブルスがあるとはいえ、両方とも基本的には個人競技です。一方、いわゆるチームプレーが必要なサッカーやバスケはしたことがありません。もし、私がバスケをやっていたら、人にパスせずに、自分でゴールまで持ち込もうとしてばかりだったんじゃないかな(笑)」
 店を開業した後も、海外に行く場合などは、最低1ヶ月間の不定休をとる。
「自分のペースを崩さなくていいと思っているからです」
 高橋はこれまで携帯電話を持ったことがない。だが、パソコンは持っているうえ、ネットショッピングもする。
「そこには自分なりの線引きがあって、パソコンだと自分の都合で開いて見られる一方で、携帯だといつどんな時でもどんどん入ってくる。固定電話やケータイは突然鳴るけど、メールだとそういううるささはないですから。まぁ、そうやって自分を正当化しているんです(笑)。
 以前は周りから「連絡したいからケータイを持ってくれ」と言われたりしたけど、今ではそれが浸透したのか、言うのも諦めたみたい。(笑)もちろん私もあれば便利だなと思うことはたまにあるけど、だからといって持ちたくはないんですよね。仕事柄あまり必要ないこともありますし」
 開業以来、店に固定電話を置いたこともない。
「かかってきた電話をとるとなると、(店の広さを考えれば)店にいるお客さんに静かにしてもらったり、話を中断する必要が出てきたりする。となると、お客さんのペースを乱すことになったり、かえって気を遣わせることにもなりますから」
 元々、電話が好きじゃなかったこともあり、自宅にも固定電話を置いていなかった。
 だが、子供たちが学校に通うようになってから生じたある不都合をきっかけに黒電話をひく。緊急連絡網を回す際、他人に迷惑をかけざるを得なくなったからだ。パソコンを買い、メールをするようになったのも、娘がノルウェーの学校に留学する際、学校側と連絡をとる上で(メールを使わなければ)締め切りに間に合わないという状況での「苦肉の策」だった。
「やっぱり、社会生活を送る上では、自分の都合を通すだけじゃうまく運ばない点はいっぱいありますよね。
 実際のところ、そういうことに一度こだわってしまった以上、こだわり続けているだけなのかもしれません」
 長らく社会通念とは対極をなすような価値観を持って暮らしてきた高橋だが、かつて2年間のサラリーマン生活を経験したこともある。
「実態を見ることができたおかげで、より納得した状態でそういう道を選べたのかもしれません。頭から腰かけのつもりで始めたこともあって、経験としては良かったと思います。
 そもそも、受験勉強も就活もしなくていいと思ってるし、就活に関してはその言葉自体があまり好きじゃない。それよりは旅に出た方がずっとためになるだろうと。
 だから、自身の息子や娘に対しても、強制はしなかったけれど、受験勉強も就活もしなくていい、一切しないでほしいと思っていました。「(学校の)勉強をしなさい」と言ったこともありません。
 大学進学についても、「大学は高校を卒業してからさほど間を置かずに行くところじゃない。30歳を過ぎてからだって大学は入れる。勉強したいと思った時に入ればいい」という私見を伝えていました。
 もちろん受験勉強をしたい人はすればいいと思います。一流企業に入りたい人はいい大学に入るために受験勉強をする必要があるだろうし、実際そういう人もいないと困ります。でも、同時に、そうじゃない人もいないと困るんですよね」
 高橋には子供が二人いる。今年で30歳を迎える娘は現在、ワーキングホリデーを活用しながら外国で暮らしている。
「日本を出て、違う文化のもとで暮らす人たちと出会い視野を広げる機会、そして、色んな経験を通して自立できる機会を作ること。我々が親としてやってあげられることはそれだけだと考えていました。
 とはいえ、「どこでもいいから外国に行きなさい」とか「外国は若いうちに行かなきゃダメだ」と言いたい気持ちはやまやまでした。でも、強く言えば反発されてしまうだろうからと、その気持ちをぐっとこらえて「行ったらいいかもしれないよ」と言うに留めておきました」
 ふたを開けてみれば、娘は高校卒業後すぐ日本を離れた。ノルウェーのフォルケ・ホイスコーレに入学したのだ。
「それからクセになったのか、日本に帰ってきません。たまに帰ってきても、またどこかの国に出かけて行くような感じです。でも、私はそれがいいし、それが勉強だと思っていますね」
 Espressoには、近くにある山形大学や東北芸工大の学生も来店する。彼らに旅をするよう勧めると、「英語を話せないので」との答えが返ってくることが度々あるという。
「コミュニケーションって言葉だけじゃないと思うんです。英語が全く通じないところに行って、たとえば「腹が減ってるから、何か安いものを食わしてくれ」という自身の状況を伝える場合、ジェスチャーや目の輝きといった言葉じゃないところに出てくるような気はしますから」
 同様に「金がないから行けない」という答えも多い。
「そういう時には、あくまでも私見ですが、自身の娘の話を交えながら「金は、親から借りるなりすればいい。時間は借りられないわけだから、若いときに旅をして、色んなものを身につけなさい」と伝えています」

核を成す「旅」
 日本を離れていた4年半の間、日本食が恋しくなったことも、日本が懐かしくなり帰りたくなったことも全くないという高橋。
「居心地のよさを感じられたんだと思います。仮に今行ったとしても、そういう気持ちは湧いてこないんじゃないかな。
 旅の一番の楽しみは、――食べ物に関しては全く好き嫌いがないこともあって――現地の人に招かれたり、家に泊めてもらったりすることでした。というのも、家に行けば、食べ物にせよ、文化にせよ、そこにすべてがあるわけで。
 たとえば、めったに日本人が来ないような南米の小さな町を訪れて、そこで暮らす日系人と会ったときには、ふるさとが近いという理由だけで家に招待し、日本食を出してくれたこともありました。もちろんすごくありがたいし、向こうもそうやって振る舞うことがうれしいだろうからそれでいいんです。でも、せっかく来たんだから、できればそこの国の食べ物を食べたいという思いはありましたよね。
 その背後には、こっちの世界(外国)で何とかやっていかなきゃいけないという思いが心のどこかにあったのかもしれません。実際、家を出た時点で、家へはもう帰れないと思っていましたから。いや、家族との間に亀裂が走ったわけじゃないどころか、否定的な目を向けずにいてくれたから、帰ってもよかった。でも、〈甘っちょろい自分〉から脱却するため、そういう選択肢はないものだと考えていたんです。
 だから、旅をしている間は、自分と戦っているような感覚もあったかも。実際、できる限り切り詰めた生活をしていること、それができていることも心地よさにつながっていました」
 高橋は、旅に一区切りをつけてから今まで、将来のことを一切考えたことがない。
「自身に楽天的な性質があったからなのかもしれないけれど、(旅を通して)かなりモノが少なくなっても生活できるという経験に裏打ちされた自信が生まれたからなのかもしれません。実際、今でもほんのわずかな金があれば暮らせます」
 帰国後も旅の余韻を引きずっていた高橋の中で、「不思議な居心地のよさ」は持続していた。近くのパン屋で、何も商品を買わずに無料で提供されているパンの耳だけもらって帰ったことは何度かある。主に電化製品など、まだ使えそうなモノは、ゴミ収集所から拾ってきて活用することも一度や二度ではない。たとえば、冷蔵庫を拾ってくるも電源が入らず、元の場所に捨てにいくこともあった。拾ってきた掃除機を試してみると、家にあるものよりいいものだったため、代わりに家にあるものを捨てにいくこともあった。
「パン屋で耳だけ貰って帰ることはできなくなったけれど、ゴミ収集所からモノを拾ってくる習性は今でも続いているかな。特に家電製品などの粗大ゴミ置き場はよくチェックしています。そういうのは、私にとってリサイクルストアに行くようなもの。要するに、楽しみなんですよね」
 いつからか高橋は、人からよく「がらくた」と言われるようなモノが好きになり、買い集めるようになった。
「モノがなかった頃の反動なんでしょうか。いいなと思ったら、(今でも)衝動買いしてしまうんです。でも、決して高価なものは買わないし、自分の懐事情に合わせて買うのでローンを組むこともない。大きなテレビが出たからといって買い換えるようなこともしません。
 要は、そういうのが私にとってのちょっとした「心の贅沢」なんです。生きていく上でなくても差し障りのないものなんですけど、それが生活の中にあることが”豊かさ”につながるんですよね」

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